前回記事「薬師経の私的注目点(その1)」の続きです。
3 薬師如来による病苦を取り除く力とは
薬師経によると、仏となった薬師如来は、世の人々の病苦を取り除きたいと思って「除滅」という名の精神集中に入り、頭部から大きな光明を放って真言を唱え、人々の病気を全て取り除いたとあります。薬師如来による病苦を取り除く力は、出典の分からない民間伝承ではなく、経典上に明確な根拠があり、真言宗や天台宗では、これに基づく修法が現代でも行われています。
さて、このように病苦を取り除く薬師如来がおられるのに、何故、世の中は病人であふれているのでしょうか。よくよく考えてみると、もし、薬師如来が世の人々の病苦を取り除いてしまえば、仏教における人生の根本的な苦である「四苦」(生・老・病・死)という考え方が成り立たなくなってしまいます(「生老病死のうち、病については薬師如来が解決しました」とは、お釈迦様も決して言いません)。そもそも、お釈迦様は、キノコ(あるいは豚肉)料理を食べて食中毒になり、激痛に耐えながら亡くなられたわけですが、薬師如来は何故お釈迦様の病苦を取り除かなかったのでしょうか。
そこで、考えられることは、薬師如来が取り除く「病苦」とは、我々が通常イメージする「病気」とは異なるものではないか…ということです。
原始経典に以下のような教えが収録されています。
修行者たちよ。正しい教えを聞いていない凡夫は、苦の受に触れると、憂い、悲しみ、泣き、胸を打ち、心を乱す。彼は二つの受を受ける。すなわち、身の受と、心の受である。それは、たとえば人が一本の矢に射られ、さらに第二の矢に射られるようなものである。その人は、二本の矢の苦を受ける。その凡夫は、苦の受に触れると、それに逆らい、瞋りを起こし、楽の受を求める。それ以外の出離の道を知らないからである。このようにして、彼は愛著に縛られ、生死の流転を離れない。
修行者たちよ。正しい教えをよく聞いた聖なる弟子は、苦の受に触れても、憂えず、悲しまず、泣かず、胸を打たず、心を乱さない。彼はただ一つの受のみを受ける。すなわち、身の受であって、心の受ではない。それは、たとえば人が一本の矢に射られても、第二の矢には射られないようなものである。その人は、一本の矢の苦のみを受ける。その聖弟子は、苦の受に触れても、それに逆らわず、瞋りを起こさず、楽の受に執着しない。彼は苦の如実の相を知り、その束縛から解き放たれている。
【相応部経典・第36受相応】
「二本の矢のたとえ」として有名な教えです。内容を要約すると、ある人が矢で射られると、まず身体的な痛みが生じますが、その後、「ひょっとすると死ぬんじゃないか?」という恐怖や、「なぜ私がこんな目に遭うんだ」という怒りを感じるなど、身体的な痛みに加えて精神的な苦しみを受けることになります。お釈迦様は、これを「凡夫は二本目の矢を受ける」とし、他方、「聖者は一本目の矢しか受けない」と言います。この教えから分かることは、お釈迦様は病気になって身体的な痛みを感じても、精神的な病苦は感じなかった…ということでしょうか。
お釈迦様でも、老いて病気になって死ぬわけで、自分がずっと若く健康でいられると思い込むのは、仏教の核心である「無常」に著しく反することです。これこそが病苦の原因となり、薬師如来が光を当てるとされる部分(=無明)であると言えるのではないでしょうか。「薬師如来の光を受けて、仏道を正しく歩むことで全ての病苦は取り除かれる」というのであれば、私が抱いていた薬師如来に関する様々な疑問は解消されます。
次回に続きます。

