木曜日は九響の定期に行ってきました。


プログラムは以下の通り




ほんの少し変更も。


井上さんの九響登場は久しぶりではないかしら?


それにしても野心的なプログラムだと思いません?

福岡のクラシック民度からいって、ある程度スタンダードな作品がプログラムに上がりやすい九響にあっては、かなり刺激的です。

こういう凝ったプログラムは、在京のオケでもなかなか無いプログラムだと思います。

ラプソディに絞りながら、メジャーなラヴェルの「スペイン狂詩曲」やラフマニノフの「パガニーニ・ラプソディ」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」を外しているのですから(ラフマニノフはこの間やったばかりでもありますが)。


定期演奏会としては珍しく、全編マイクを片手にした井上さんのトークつきで、ほとんどトークショーの様相を(笑)

シャブリエを「一発屋」と評したり、ご自身の頭髪(?)のことをネタにされたりと、どちらかというと真面目な雰囲気のいつもの定期演奏会とは違い新鮮でした。


シャブリエの「スペイン」で、まず会場の雰囲気を温めるところからスタート。

因みに、カラヤンはこの作品を生涯ででなんと4度も録音しているんですよね。
まぁ、10分もかからない作品だから、レコードの時代にはメインの曲の余白の埋め草にはちょうどいいし、カラヤンのブリリアントな音楽作りにも合う作品ですしね(^-^)


お次は私の苦手なドビュッシーでしたが(苦笑)、サックスというソロが入ることで、多少興味深く聴くことができました。

しかし、私はラヴェルにはパレットのようなカラフルな色彩感を感じられるんですが、ドビュッシーには水墨画のようなモノクロの濃淡の世界しか感じられないんですね。

これは演奏の質の問題ではなく、私の感性の問題なので(^-^;)

それはそれとして、上野さんのサックス、ほんとうに素晴らしい!

サックスって、こんな音色が豊富で細かなニュアンスも出せるものなんだと改めて勉強になりました。
なにしろ、私が聴くドイツ系の音楽では、サックスはほぼ無用ですし(苦笑)


リストのハンガリー狂詩曲は、一般にオケでやるテンポではなく、楽譜の指示通りの、従って速いテンポになると井上さんは予告し、その通りになりました。
確かにあの超絶技巧を誇ったリストのピアノ曲が元ネタですからね。


エネスコも、九響ではほぼ聴く機会の無い作曲家だと思います。
木管の掛け合いなんか、テンポの流動性があるなかでも、見事なアンサンブルを保持し、素晴らしいパフォーマンスを披露。
弦のグリッサンドも効果的☆


そしてお目当てともいうべき伊福部さんの作品。

いやぁ、初めて聴いた作品ですが、参りました。
井上さんの解説によると19歳の時の作品で、しかも独学とのこと。
こういう人を天才というべきなんですかね。

素材を日本のものに求めて、それを西洋のクラシック音楽の技法で調理するという、開国以来の日本の多くの作曲家の作品のなかでも、傑出した作品だと思います。

そしてヴィオラ・ソロは、大御所の菅沼準二さんの登場。
情感の豊かさたるや、さすがベテランの持ち味というところでしょうか。


そして最後の外山さんの作品は、もう日本のオケの海外公演での定番のアンコール曲ですし、普通に国内のコンサートでも聴ける名曲ですよね。

こういう作品になると、九州という地域性ゆえか、恐ろしくパワフルでノリノリの音楽を聴かせてくれる九響。

指揮者もそういうタイプの方だから、相乗効果も抜群!


終演後に、何人かの知り合いの楽員の方に聴きましたが、疲れたけどとっても楽しかったというのが一致した意見でした。

聴衆も同じくで、1曲終わるごとに「ブラーヴォ」が飛んでました。

惜しむらくは、木曜日のコンサートということで、金曜日の定期より客の入りが悪かったこと。
うーん、やはり木曜日だと次の日も仕事や学校の方が多いので、現役世代に厳しいスケジュールになりますね…


なお、来月の定期はバイロイト出演指揮者のヴァイグレを招いてのワーグナーとブラームスという、今回の定期とは対照的な王道プログラムが待っています。


大好きなシューマンの第2交響曲。

恐らく録音の数も演奏会で取り上げられる数も、彼の4つの交響曲の中では一番少ないと思います。

確かに渋いですが、一番シューマンらしさの出た交響曲だと思います。


そして改訂。


シューマンの交響曲は第2番に限らず、そのオーケストレーションに不満を持つ人から手を加えられてきて、最も有名なのがマーラー改訂のスコアでしょう。
彼はシューマンの、一つの旋律をいくつもの楽器で重ねるあの書法を嫌い、多くの楽器を取り去りスリム化させています。

後世の多くの指揮者も、このマーラー版に倣う形で、各々色々と手を加えています。

偉大なシューマン指揮者であったジョージ・セルは、1960年のシューマン生誕150周年に寄せた論考の中で、次のように書いています:

「どの程度オーケストラに手を加えるかというデリケートな問題は、各々の指揮者がその良心と趣味(taste)に従って解決されなければならない」。


つまりセルにとっては、手を加えるか否かが問題なのではなく、どの程度手を加えるかが問題だったということ。
手を加えることは大前提だったようです。

事実、残されたセルのこの交響曲の録音は、マーラー版を基にしたものと思われる改訂がなされています。

19世紀生まれの指揮者では、他にはシューリヒトがこれはマーラー版とは異なる恐らく彼自身の改訂によると思われる録音を残しています。


ただ、あの野暮ったいオーケストレーションも含めてシューマンという考えが一般化してきたこの21世紀になって、さすがにシューマンのスコアに手を加える指揮者はいないだろうと思っていたら、いました(笑)



ギーレン&南西ドイツ放送響(2010年)


惜しくも引退したこの老匠がシューマンのスコアに手を加えてました。

さすがにマーラー版ほど派手ではありませんが、例えば第1楽章を取り上げられるならば。15小節と16小節のそれぞれ1拍目の弦はarcoではなく、pizzで処理してます。

また353小節のティンパニは、トロンボーンとコントラバスのリズムに合わせて叩かせています。

(なお、カップリングの「ライン」は明記はされてませんが、ほぼマーラー版で間違いありません。証拠として、ジャケットには使用譜としてUniversal社と記されており、この会社は言うまでもなくマーラー版のシューマンのスコア、そしてマーラー自身の作品のスコアを出している出版社です)


しかし、このギーレンのささやかな変更に比べれば、シューマンの第2交響曲に対するマーラーの改訂は凄まじいです。

第1楽章冒頭の3種の金管によるC→Gの跳躍(この交響曲全体を貫くモットー)は、トラッペットだけに変更してます。

50小節目から始まるこの交響曲の主部の第1主題も、管楽器は全て削除され、弦楽器のみ。

また再現部の第1主題が奏される所では、シューマンのスコアではホルンの3連符の連発に、トランペットとティンパニの3連符の連発が1小節ずつ交替に鳴らしますが、マーラーはティンパニをカットしてしまいます。

大作曲家に対して畏れ多いですが、私はこれはマーラーの大失敗だと思います。

というのもこの交響曲が書き始められる3ヶ月前の1845年9月のメンデルスゾーン宛の書簡の中で、次のように書いているからです:

「この数日間、(ハ長調の竜巻のような)トランペットとティンパニの音が、頭のなかを鳴りつづけています」。

すなわち、この交響曲ではこの2つの楽器がキモだという訳です。

マーラーがこの書簡のことを知らなかったのかも知れませんが、個人的にはシューマンの意図を完全に無視してしまったと思います。


マーラーの改訂はさらに続き、コーダの開始部にあたる317小節(con fuocoの指示がある箇所)からは、デュナーミクに関する指示を大幅に変更してます。


第2楽章でも引き続き楽器のカットが行われ、やはりコーダの365小節から372小節までは全ての管楽器を削除。

そして第4楽章に至っては、楽器どころか相当数の小節までがカットされる始末(苦笑)

因みにマーラー自身がこの曲を振ったのは、死の前年の1910年のニューヨーク・フィルとの2回のみです。


このマーラー版のスコアによる演奏はチェッカート&ベルゲン交響楽団の演奏で聴けます。
(やはりマーラー版と銘打ったシャイー&ゲヴァントハウス管の録音は、マーラーのやりすぎを多少控えてます)。

このマーラー版のスコアでも、十分「凶悪」な改訂だと思ってましたが、上には上がいました。

それが


トスカニーニ&NBC響


トスカニーニは正規の商業録音ではこの交響曲を録音していないので、このライブ録音が唯一のものとなるかと思います。

解説によると、シューマンの作品の中で、トスカニーニのレパートリーに最初に入ったのがこの交響曲とのこと(1897年、トリノ)。

ドイツ語圏でも人気があったとは言えないこの交響曲が、このイタリア人指揮者の最初のレパートリーとは、ちょっと不思議。


それにしても、トスカニーニの改訂はマーラーの上をいく凶悪とも言えるもの。

基本はマーラー版なんですが、第1楽章の最後の370からは、2度に渡りトランペットにC→Gのモットーを吹かせてます(もちろんシューマンのスコアにそんなものはない)。

とどめは終楽章のこれまた最後の583小節からの585小節の金管。
ここはⅣ→Ⅰの和音で解決をするように作られてますが、ここでもトスカニーニはトランペットにC→Gのモットーを吹かせており、これにはさすがに度肝を抜かれたというか、もはや呆れてしまいました。

しかもあの悪名高い8Hスタジオでの録音で、トランペットの音色ときたら、イタリアオペラにはいいかも知れないけど、ドイツ音楽には向かないペラッペラッなもので、笑ってしまうくらい。


私は常々「楽譜に忠実なトスカニーニ」という世評に異を唱えてます。

例えば、ベートーヴェンの第九やエロイカをスコアを見てトスカニーニの録音を聴けば(もちろん現代のベーレンライターやブライトコップでは比較の対象にならないので、当時のブライトコップの旧全集の方のスコア)、到底「忠実」とは言えない凄まじい改竄がなされています。

「楽譜に忠実な」という評価は、当然トスカニーニやライバルと目されたフルトヴェングラーに対するある種の当て擦りでもありますが、少なくともフルトヴェングラーはトスカニーニほどはベートーヴェンのスコアには手を加えていません。

また、トスカニーニがニューヨーク・フィルで共に仕事をしたメンゲルベルクの手を加えまくったスコアを見て、「このドイツ人(厳密にはオランダ人だが父方はドイツ人)はほんとうに指揮者か?  恥を知れ!」とメンゲルベルクを罵ったとのことですが、私からすれば「このイタリア人はほんとうに指揮者か?  恥を知れ!」とメンゲルベルクにブーメランされても仕方ないも思います(笑)


また、彼はデュナーミクなんかにも、かなり無頓着です。

例えばこのCDにカップリングされているメンデルスゾーンの「スコットランド」の第4楽章のコーダの開始(A-durに転じる396小節)は、全ての楽器にmfの指示がなされてますが、トスカニーニはffで開始します。

当然この後は、メンデルスゾーンのスコアでは徐々にcresc.させて、最終的にffで終わるように作られているのですが、トスカニーニのやり方だとずっとffのままになってしまいます。

しかもとんでもなくテンポが速い。

なので


445小節から何回か現れる16分音符4つは、ほとんどトレモロに聞こえてしまい、メンデルスゾーンの意図が失われてしまっていると個人的には思います。

トスカニーニのこの作品の記録としては価値はありますが、演奏自体はかなり「?」です。


因みに、トスカニーニはシューマンの「ライン」も、ほぼマーラー版で指揮してます。


なお、私自身は指揮者がスコアに手を加えることに全面的に反対なわけではないことを断っておきます。

指揮者もどうにかしてその作品を世に知らしめたいという善意からやったことなのですから。

随分前のコンサートで、とあるオケでストラヴィンスキーの作品を聴きました。

スコアをご覧になれば判るように、数小節ごとに拍子が変わるし、楽器の編成も膨大だし、まぁ暗譜は大変だろうなぁと素人ながらに思います。

さて、このコンサートで、指揮者は暗譜でやっていたんですが、明らかに指揮者が迷子になってしまい、オケにキューを出せず、オケが自力で立て直してました。

団員の方は、「暗譜できないなら、楽譜を見ながら振ってよ」とお怒り。

全く尤もな話だと思います。

そのためにスコアはあるんだろうし…


オペラ歌手には暗譜は必須かも知れませんが、バックアップ機能としてオペラハウスにはプロンプターがいるし、指揮者によっては自ら歌詞を伝えてくれることも。
(こういう職人気質のカペルマイスターの価値は、オペラ文化の無い日本ではなかなか評価されないよなぁ…)

聴き手として個人的には、暗譜なんかはどうでも良いと思います。
コンクールなんかでの暗譜の必須要件は、暗譜するくらい楽譜を読み込んでるでしょ、ということなのでしょうね。

でも、聴き手にとっては、少なくとも映像や生のコンサートでない限り、つまりCDで聴いている限り、演奏者が暗譜でやっているのかどうかは分かりませんし、そんなこと気にして聴いている人はいませんよね。

つまるところ、暗譜云々は演奏者する側だけの問題で、正直どうでもいい気がするんですが。
どんなに暗譜していても、演奏が冴えないなら本末転倒な話。

リヒテルみたいに堂々と楽譜を置いて、素晴らしいピアノを聴かせてくれるほうがありがたいです(^-^)


恐らく、指揮者も含めて暗譜が当たり前になったのはトスカニーニからでしょうか。


ご本人は極度の近眼から、やむを得ずそうしただけで、よもや暗譜がスタンダードになるとは思ってもいなかったでしょうね。

彼が度の強い眼鏡をかけるという選択肢を選んでいたら、もしかしたらこの流れは変わっていたかも知れないですね(^^)


もちろんこうした流れに抵抗を示す人もいたわけで、フルトヴェングラーは


聴衆はもはや古代ローマのコロッセオの観客のようなもので、音楽そのものより、暗譜という「サーカス」を観に来ているようなものだ、と。

1940年の手記には次のような一文が:

「あなたが素材的な素質、例えば技術とか暗譜による指揮を過大評価するならば、それは芸術の鍛練ではなく、勤勉さの鍛練を奨励することになる」。

カラヤンが若き日にフルトヴェングラーのライバル的当て馬としてベルリン国立歌劇場の指揮者として活動していた時期に、ユーゴの王太子とヒトラー臨席の下、「マイスタージンガー」を暗譜で振りました。

しかし歌手のせいかカラヤンのせいか、責任の所在はともかく、ある箇所でトラブルを起こしてしまいました。

ヒトラーは怒り、フルトヴェングラーにマイスタージンガーは暗譜で振ることができるものか?と問うと、フルトヴェングラーは「不可能」と答えたとのこと。


ちなみにカラヤンの暗譜能力に関しては、プロ、それも超一流のプロの間では疑問符がつけられてます。

かつてバイエルンの放送局が、マルタ・メードル、アストリッド・ヴァルナイ、ビルギット・ニルソンという、20世紀半ば女性ワーグナー歌手の頂点に君臨した目眩のするようなメンツによる鼎談を放送しました。
(トップ歌手には珍しく、この3人はプライベートでも仲が良かったとのこと)

その中で彼女たちは、カラヤンが演奏中に迷子になってしまうと、例の拍のよく分からない円を描くような振り方をしたとボヤいてます。
ヴァルナイはそのことに苦情を申し立てると、カラヤンは彼女を排除し、代わりにニルソンをウィーンに呼ぶようになったと。

ヴァルナイとカラヤンの共演はそれから10年はなかったとのこと(苦笑)

これはヴァルナイの被害妄想ではなく、例えばフルトヴェングラーのお気に入りであったやはり偉大なワーグナー歌手のヨーゼフ・グラインドルも、長らくカラヤンのプロダクションからは外されてました。
戦後のバイロイトのバス役の大半を担っていたグラインドルすら排除するカラヤンですから、ヴァルナイの一件も恐らく彼女の言う通りでしょう。

いずれにしても、楽譜を持って歌うことができない舞台上の歌手たちが困ったときに、指揮者も中途半端な暗譜でどこを振ってるか分からない=歌手に歌詞を伝えられないようでは、何のための指揮者か、という話になるのでしょうね。


今日に残されてる映像などからも、譜面を見ながら指揮していた代表的な指揮者がクレンペラー


指揮者稼業を始めて半世紀を過ぎても、常にスコアを置いて指揮していたマエストロ。

長くなりますが、彼の暗譜に関する一文がありますので、ご覧下さい:

「イタリアのマエストロ、トスカニーニが世間に登場してからというもの、暗譜で指揮することが流行になってしまった。

どうしてトスカニーニは暗譜で指揮したのか?
彼はひどい近眼だった。彼はどうしてメガネをかけなかったのか?
我々にはその辺の事情は分からない。

しかし否定すべくもないことは、トスカニーニという例が、彼以降の世代の指揮者にとって不幸な結果を招くことになってしまった点である。

今日では若い指揮者で、敢えてスコアを抱えて指揮台に登る者はいない。

聴衆は暗譜で指揮する姿を見て、いたく感動するのである。聴衆はもはや音楽には耳を傾けず、指揮者の方ばかり見ている。譜面台もないし、スコアもない。すごいぞ、と。

とは言え、モーツァルトやベートーヴェンの時は、暗譜で指揮しても、聴衆はあまり驚かない。結局のところ、それはわけも無いことだ、と思われている。

しかしシュトラウスの『英雄の生涯』やマーラーの交響曲なら? 

これはたいそう厄介である。聴衆が間違っているからだ。話は逆なのである。

シュトラウスやマーラーの場合、大規模な楽器編成のおかげで、自ずと鳴ってくれる。

ベートーヴェンの交響曲の場合、指揮者は一部不完全なオーケストレーションの音楽を鳴らさなくてはならない。

しかし、だからと言って、指揮者がオーケストレーションを改変すべきだ、という訳ではない。19世紀にワーグナーやマーラーまでもが、この点に関してやり過ぎてしまったのである。

管弦楽に手を入れる権利を持つのは、例えばベートーヴェンが生きていたら、きっと今日の我々が使っているバルブ式ホルンやトランペットを使用していただろうと確信できる場合に限られるのだ。


本来のテーマから逸れてしまった。

暗譜で指揮するのか、それとも暗譜で指揮するのか?

スコアを置かない方がより気持ちよく、より自由に感じられるという意見の指揮者もいる。

指揮者なら誰もが、スコアの隅々まで頭に入れておかなければならないことは、言うまでもない。

しかし、その事実をわざわざ聴衆に見せる必要があるのか? それでは、単なる見栄になってしまうのではないか?

マーラーとシュトラウスは大作曲家であったばかりか、卓越した指揮者でもあったが、二人ともスコア無しで済ますことは決してなかった。二人とも暗譜方式の自他ともに認める反対者だった。

スコアとは、補助手段でもあり、また完全なる自由へと導く良き友でもある。指揮者はゆめゆめ自分の記憶力の奴隷となってはならない。

若い指揮者諸君、この悪習を忘れたまえ、音楽に忠実であれ!」(1964)



堅い文章ですが、実にまっとうな正論だと思います。

事実、残された映像でも、この巨匠は律義に1頁1頁スコアを捲りながら指揮しており、まさに言行一致です。



そしてとどめに。


さらに、皮肉を込めて暗譜至上主義に反対したのが、長大なワーグナー作品のプロフェッショナルであったハンス・クナッパーツブッシュの名言で締めくくります:

「あいにく、私は楽譜を読めますので」。