随分前のコンサートで、とあるオケでストラヴィンスキーの作品を聴きました。
スコアをご覧になれば判るように、数小節ごとに拍子が変わるし、楽器の編成も膨大だし、まぁ暗譜は大変だろうなぁと素人ながらに思います。
さて、このコンサートで、指揮者は暗譜でやっていたんですが、明らかに指揮者が迷子になってしまい、オケにキューを出せず、オケが自力で立て直してました。
団員の方は、「暗譜できないなら、楽譜を見ながら振ってよ」とお怒り。
全く尤もな話だと思います。
そのためにスコアはあるんだろうし…
オペラ歌手には暗譜は必須かも知れませんが、バックアップ機能としてオペラハウスにはプロンプターがいるし、指揮者によっては自ら歌詞を伝えてくれることも。
(こういう職人気質のカペルマイスターの価値は、オペラ文化の無い日本ではなかなか評価されないよなぁ…)
聴き手として個人的には、暗譜なんかはどうでも良いと思います。
コンクールなんかでの暗譜の必須要件は、暗譜するくらい楽譜を読み込んでるでしょ、ということなのでしょうね。
でも、聴き手にとっては、少なくとも映像や生のコンサートでない限り、つまりCDで聴いている限り、演奏者が暗譜でやっているのかどうかは分かりませんし、そんなこと気にして聴いている人はいませんよね。
つまるところ、暗譜云々は演奏者する側だけの問題で、正直どうでもいい気がするんですが。
どんなに暗譜していても、演奏が冴えないなら本末転倒な話。
リヒテルみたいに堂々と楽譜を置いて、素晴らしいピアノを聴かせてくれるほうがありがたいです(^-^)
恐らく、指揮者も含めて暗譜が当たり前になったのはトスカニーニからでしょうか。
ご本人は極度の近眼から、やむを得ずそうしただけで、よもや暗譜がスタンダードになるとは思ってもいなかったでしょうね。
彼が度の強い眼鏡をかけるという選択肢を選んでいたら、もしかしたらこの流れは変わっていたかも知れないですね(^^)
もちろんこうした流れに抵抗を示す人もいたわけで、フルトヴェングラーは
聴衆はもはや古代ローマのコロッセオの観客のようなもので、音楽そのものより、暗譜という「サーカス」を観に来ているようなものだ、と。
1940年の手記には次のような一文が:
「あなたが素材的な素質、例えば技術とか暗譜による指揮を過大評価するならば、それは芸術の鍛練ではなく、勤勉さの鍛練を奨励することになる」。
カラヤンが若き日にフルトヴェングラーのライバル的当て馬としてベルリン国立歌劇場の指揮者として活動していた時期に、ユーゴの王太子とヒトラー臨席の下、「マイスタージンガー」を暗譜で振りました。
しかし歌手のせいかカラヤンのせいか、責任の所在はともかく、ある箇所でトラブルを起こしてしまいました。
ヒトラーは怒り、フルトヴェングラーにマイスタージンガーは暗譜で振ることができるものか?と問うと、フルトヴェングラーは「不可能」と答えたとのこと。
ちなみにカラヤンの暗譜能力に関しては、プロ、それも超一流のプロの間では疑問符がつけられてます。
かつてバイエルンの放送局が、マルタ・メードル、アストリッド・ヴァルナイ、ビルギット・ニルソンという、20世紀半ば女性ワーグナー歌手の頂点に君臨した目眩のするようなメンツによる鼎談を放送しました。
(トップ歌手には珍しく、この3人はプライベートでも仲が良かったとのこと)
その中で彼女たちは、カラヤンが演奏中に迷子になってしまうと、例の拍のよく分からない円を描くような振り方をしたとボヤいてます。
ヴァルナイはそのことに苦情を申し立てると、カラヤンは彼女を排除し、代わりにニルソンをウィーンに呼ぶようになったと。
ヴァルナイとカラヤンの共演はそれから10年はなかったとのこと(苦笑)
これはヴァルナイの被害妄想ではなく、例えばフルトヴェングラーのお気に入りであったやはり偉大なワーグナー歌手のヨーゼフ・グラインドルも、長らくカラヤンのプロダクションからは外されてました。
戦後のバイロイトのバス役の大半を担っていたグラインドルすら排除するカラヤンですから、ヴァルナイの一件も恐らく彼女の言う通りでしょう。
いずれにしても、楽譜を持って歌うことができない舞台上の歌手たちが困ったときに、指揮者も中途半端な暗譜でどこを振ってるか分からない=歌手に歌詞を伝えられないようでは、何のための指揮者か、という話になるのでしょうね。
今日に残されてる映像などからも、譜面を見ながら指揮していた代表的な指揮者がクレンペラー
指揮者稼業を始めて半世紀を過ぎても、常にスコアを置いて指揮していたマエストロ。
長くなりますが、彼の暗譜に関する一文がありますので、ご覧下さい:
「イタリアのマエストロ、トスカニーニが世間に登場してからというもの、暗譜で指揮することが流行になってしまった。
どうしてトスカニーニは暗譜で指揮したのか?
彼はひどい近眼だった。彼はどうしてメガネをかけなかったのか?
我々にはその辺の事情は分からない。
しかし否定すべくもないことは、トスカニーニという例が、彼以降の世代の指揮者にとって不幸な結果を招くことになってしまった点である。
今日では若い指揮者で、敢えてスコアを抱えて指揮台に登る者はいない。
聴衆は暗譜で指揮する姿を見て、いたく感動するのである。聴衆はもはや音楽には耳を傾けず、指揮者の方ばかり見ている。譜面台もないし、スコアもない。すごいぞ、と。
とは言え、モーツァルトやベートーヴェンの時は、暗譜で指揮しても、聴衆はあまり驚かない。結局のところ、それはわけも無いことだ、と思われている。
しかしシュトラウスの『英雄の生涯』やマーラーの交響曲なら?
これはたいそう厄介である。聴衆が間違っているからだ。話は逆なのである。
シュトラウスやマーラーの場合、大規模な楽器編成のおかげで、自ずと鳴ってくれる。
ベートーヴェンの交響曲の場合、指揮者は一部不完全なオーケストレーションの音楽を鳴らさなくてはならない。
しかし、だからと言って、指揮者がオーケストレーションを改変すべきだ、という訳ではない。19世紀にワーグナーやマーラーまでもが、この点に関してやり過ぎてしまったのである。
管弦楽に手を入れる権利を持つのは、例えばベートーヴェンが生きていたら、きっと今日の我々が使っているバルブ式ホルンやトランペットを使用していただろうと確信できる場合に限られるのだ。
本来のテーマから逸れてしまった。
暗譜で指揮するのか、それとも暗譜で指揮するのか?
スコアを置かない方がより気持ちよく、より自由に感じられるという意見の指揮者もいる。
指揮者なら誰もが、スコアの隅々まで頭に入れておかなければならないことは、言うまでもない。
しかし、その事実をわざわざ聴衆に見せる必要があるのか? それでは、単なる見栄になってしまうのではないか?
マーラーとシュトラウスは大作曲家であったばかりか、卓越した指揮者でもあったが、二人ともスコア無しで済ますことは決してなかった。二人とも暗譜方式の自他ともに認める反対者だった。
スコアとは、補助手段でもあり、また完全なる自由へと導く良き友でもある。指揮者はゆめゆめ自分の記憶力の奴隷となってはならない。
若い指揮者諸君、この悪習を忘れたまえ、音楽に忠実であれ!」(1964)
堅い文章ですが、実にまっとうな正論だと思います。
事実、残された映像でも、この巨匠は律義に1頁1頁スコアを捲りながら指揮しており、まさに言行一致です。
そしてとどめに。
さらに、皮肉を込めて暗譜至上主義に反対したのが、長大なワーグナー作品のプロフェッショナルであったハンス・クナッパーツブッシュの名言で締めくくります:
「あいにく、私は楽譜を読めますので」。