第三章第一節
第三章:初期ストア哲学の出来事論
第一節:出来事の非物体性
まず、初期ストア哲学は物体と非物体を区別する。江川は以下のように述べる。「ストア派の人々にとっては、すべては物体であり、物体しか存在しない。したがって、<存在する>と言われるものは、すべて物体的なものである。ストア派において<存在>の名に値するものは、物体だけである。何故なら、物体は働きかけたり働きかけられたりすることのできる唯一の存在だからである」(※28) 。つまり、物体とは働きかけるという能動と、働きかけられるという受動の関係、さらには原因と結果の関係を担っているすべてのものを指す。江川はまた、以下のように述べている。「原因は常に物体であり、物体においては、結果とならない原因も、原因とならない結果も決して存在しない」(※29) 。
したがって、ストア派の人々にとって世界を構成するおよそすべてのものは物体ということになる。しかし、この物体間の無際限な因果関係がすべてというわけではない。というのも、ストア派においては存在とは全く別の位相に位置する非物体的なものが認められているからである。ストア派の存在(物体)論では世界を説明しきれなかった。そのため、非物体的なものという概念を導入することで、この問題を解消しようとしたのである。非物体的なものは存在でもなければ、能動的でも受動的でもないもの(※30) を指す。これは一体どういうことだろうか。
ここで、「ナイフが肉を切る」という命題を参考にして、物体と非物体の関係を確認してみる。この場合、物体に該当するものはナイフと肉であるのは明らかである。ナイフという第一の物体と肉という第二の物体の関係は、やはり能動と受動、原因と結果の関係である。ナイフの「切る」という能動性を認めるならば、肉は「切られる」という受動を意味するし、ナイフが「切る」という原因ならば、「切られた」肉は結果である。この限りにおいて、物体は能動受動、原因結果の関係にあるということができるだろう。
では、「切る」という行為そのものはどうか。まず、「切る」という行為はストア派の言うところの物体(存在)には該当しない。なぜならば、「切る」という行為は能動でもなければ受動でもなく、また、原因でもなければ結果でもないからである。それは、あくまで能動と受動、原因と結果をつなぐ媒介項のようなものであって、決して物体(存在)ではない。「切る」ということそれ自体はナイフの能動にも肉の受動にも属しておらず、それはあくまで物体(ナイフ)によって現実化された結果(効果=切る)としてあるだけである。したがって、「切る」という行為は出来事としてみなされ、またそれは非物体的なものに該当する。
ここで、非物体的なものの特徴の一つが見て取れる。それは、非物体的なものはナイフという物体が引き起こした結果(効果)だということである。これは、非物体的なものがあくまで結果(効果)に位置し、原因には位置しないということを意味している。つまり、非物体的なものは他のものの原因になり得ず、それは一つの因果関係の終止符を打つような、次の段階で決して他の物の原因となることのない純粋な結果である。(※31) この限りにおいて、非物体的な出来事とはストア派的な因果関係の連鎖に束縛されない自由なものと呼ぶことができるだろう。確かに、諸々の非物体的な出来事が結果の間で結びついていることは事実であるし、そのような場合は多々ある。(※32) (例えば、「ナイフが肉を切る」→「肉が腐る」→「その肉を捨てる」等)しかしながら、これは第一章で確認したとおり、起こった出来事をただ時系列的に列挙しているだけである。したがって、ここには我々の恣意的な論理的接続があるだけで、そこに因果関係は見出すことはできない。
このことから、物体は他の物体の原因にもなれば非物体的なものの原因にもなり得る。「切る」という行為、すなわち「切る」という出来事はナイフの本質や本性に何も付け加えないだろう。なぜなら、もしナイフの本質や本性に付け加えてしまったら、それは非物体的な出来事である「切る」という行為が原因へと転化してしまうことを意味するからである。また、受動側でも同じことが言える。つまり、「切る」という出来事は肉に対して新たな特質を与えるわけではなく、あくまで新たな属性として、つまり「切られる」という属性として肉に付着するような結果(効果)である。
ここで注意しておきたいのは、特質は物体の側に位置するのに対し、属性は非物体の側に位置するということである。なお、ストア派が用いている「特質」という言葉は、「性質」という言葉とほぼ同義で使用されている。(※33) つまり、特質とはその物体の固有性を確保し、他の物体との差異を決定付けるものである。したがって、特質は存在の本性を変えてしまう原因になり得てしまうので、物体というカテゴリーに入れられる。反対に、属性はその存在の本性を何も変えることはなく、あくまで物体の限界面において成立するものである。したがって、属性は非物体というカテゴリーに入れられる。
そして、ドゥルーズの内在的発生論の立場が、ストア派においても見て取れる。「切る」という出来事或いは「切られる」という出来事は、明らかにナイフや肉といったものから表出してきたものであって、そこに超越的な何かを設定する必要はない。また、それらの非物体的な出来事は、決して目に見えるものではない。ナイフや肉のどこに「切る」や「切られる」といった作用を見て取ることができるだろうか。切っているのはあくまでナイフであり、切られているのはあくまで肉である。これは第一章で確認したように、出来事が存在ではなく生成の側にあることに裏付けられている。ここでは、出来事は非物体的なものに含まれるため、非物体的なものも生成の側にあるということができるだろう。
また、「物体であるということは、言い換えると、そこに何らかの個体化が絶えず存在するということになる」(※34) 。ここで述べられている個体化とは、原因である物体と純粋な結果(効果)である非物体的なものの間の混合状態である。つまり、物体である肉は「切られる」という出来事、すなわち「切られる」という一つの純粋な効果を得ることで、そのかたちを変形させ、その出来事と混ざり合う。(この場合、「切られた肉」というのが混合状態に当たる。)ナイフによって切られ分割された肉は、その形を変えただけであって、本性上の変化は何もない。これは言い換えれば、非物体的なものがその物体の個体化をもたらしたということになる。非物体的な効果がなければ、物体は非物体的なものと混合状態にはならない。このことから、非物体的な出来事は前個体的なものということができる。なぜならば、いかなる物体にもその属性を付与していない時点での出来事は、いかなる物体にも所有されていないからである。つまり、非物体的な出来事はその出来事そのものの時間を継続し、或る一点で物体に属性として付与されるのである。出来事そのものの時間とは第一章で述べた永遠の時間のことである。また、個体化とは一つの因果関係の帰結という意味で、その混合状態の固定化ということもできる。この個体化(固定化)が形成されるのは、まさしくドゥルーズが述べている現在の時間である。現在の時間とは、定点という性質を持ち、存在の側に属するものであった。
ところで、この能動受動の関係から、第一章で曖昧にしていた問題を解決することができるだろう。それは永遠の時間に位置する出来事を我々が無理矢理抽出してくるのか、それともブスケの言うように、出来事とは受肉というような手段を用いて現実化するのか、といった問いである。前者のベクトルは、「我々から出来事」であるのに対し、後者のベクトルは「出来事から我々」というものであった。これはいずれも微妙に異なる事柄について述べている。前者の場合、我々人間という物体から出来事という非物体的なものを産出している限りで、出来事を非物体的な結果であるとみなしている。それに対して後者は、非物体的な出来事が一つの属性として、我々人間という物体と混合していることを指す。しかし、出来事というのは、必ず原因が物体であり、その結果(効果)として見出され得るものであった。したがって、ストア派又はドゥルーズの観点からは、ブスケの言う受肉は、その出来事の原因となるようなものを無視しているということができる。
※28 エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論―附:江川隆男「出来事と自然哲学」』江川隆男訳、月曜社、2006年 p.136
※29 同書 p.138
※30 具体的には、表現可能なもの(レクトン)・空虚・場所・時間の4つを指す。(同書 p.9参照。
※31ブレイエ前掲注(28) p.99参照。
※32ストア派はこのような非物体的な結果の結び付き、すなわち非物体的なものが一種の原因になるようなことを「準-原因」と名付ける。これは物体と非物体的なものが全く系列の異なるものだということを示している。
※33同書 p.36 参照。
※34同書 p.136
第一節:出来事の非物体性
まず、初期ストア哲学は物体と非物体を区別する。江川は以下のように述べる。「ストア派の人々にとっては、すべては物体であり、物体しか存在しない。したがって、<存在する>と言われるものは、すべて物体的なものである。ストア派において<存在>の名に値するものは、物体だけである。何故なら、物体は働きかけたり働きかけられたりすることのできる唯一の存在だからである」(※28) 。つまり、物体とは働きかけるという能動と、働きかけられるという受動の関係、さらには原因と結果の関係を担っているすべてのものを指す。江川はまた、以下のように述べている。「原因は常に物体であり、物体においては、結果とならない原因も、原因とならない結果も決して存在しない」(※29) 。
したがって、ストア派の人々にとって世界を構成するおよそすべてのものは物体ということになる。しかし、この物体間の無際限な因果関係がすべてというわけではない。というのも、ストア派においては存在とは全く別の位相に位置する非物体的なものが認められているからである。ストア派の存在(物体)論では世界を説明しきれなかった。そのため、非物体的なものという概念を導入することで、この問題を解消しようとしたのである。非物体的なものは存在でもなければ、能動的でも受動的でもないもの(※30) を指す。これは一体どういうことだろうか。
ここで、「ナイフが肉を切る」という命題を参考にして、物体と非物体の関係を確認してみる。この場合、物体に該当するものはナイフと肉であるのは明らかである。ナイフという第一の物体と肉という第二の物体の関係は、やはり能動と受動、原因と結果の関係である。ナイフの「切る」という能動性を認めるならば、肉は「切られる」という受動を意味するし、ナイフが「切る」という原因ならば、「切られた」肉は結果である。この限りにおいて、物体は能動受動、原因結果の関係にあるということができるだろう。
では、「切る」という行為そのものはどうか。まず、「切る」という行為はストア派の言うところの物体(存在)には該当しない。なぜならば、「切る」という行為は能動でもなければ受動でもなく、また、原因でもなければ結果でもないからである。それは、あくまで能動と受動、原因と結果をつなぐ媒介項のようなものであって、決して物体(存在)ではない。「切る」ということそれ自体はナイフの能動にも肉の受動にも属しておらず、それはあくまで物体(ナイフ)によって現実化された結果(効果=切る)としてあるだけである。したがって、「切る」という行為は出来事としてみなされ、またそれは非物体的なものに該当する。
ここで、非物体的なものの特徴の一つが見て取れる。それは、非物体的なものはナイフという物体が引き起こした結果(効果)だということである。これは、非物体的なものがあくまで結果(効果)に位置し、原因には位置しないということを意味している。つまり、非物体的なものは他のものの原因になり得ず、それは一つの因果関係の終止符を打つような、次の段階で決して他の物の原因となることのない純粋な結果である。(※31) この限りにおいて、非物体的な出来事とはストア派的な因果関係の連鎖に束縛されない自由なものと呼ぶことができるだろう。確かに、諸々の非物体的な出来事が結果の間で結びついていることは事実であるし、そのような場合は多々ある。(※32) (例えば、「ナイフが肉を切る」→「肉が腐る」→「その肉を捨てる」等)しかしながら、これは第一章で確認したとおり、起こった出来事をただ時系列的に列挙しているだけである。したがって、ここには我々の恣意的な論理的接続があるだけで、そこに因果関係は見出すことはできない。
このことから、物体は他の物体の原因にもなれば非物体的なものの原因にもなり得る。「切る」という行為、すなわち「切る」という出来事はナイフの本質や本性に何も付け加えないだろう。なぜなら、もしナイフの本質や本性に付け加えてしまったら、それは非物体的な出来事である「切る」という行為が原因へと転化してしまうことを意味するからである。また、受動側でも同じことが言える。つまり、「切る」という出来事は肉に対して新たな特質を与えるわけではなく、あくまで新たな属性として、つまり「切られる」という属性として肉に付着するような結果(効果)である。
ここで注意しておきたいのは、特質は物体の側に位置するのに対し、属性は非物体の側に位置するということである。なお、ストア派が用いている「特質」という言葉は、「性質」という言葉とほぼ同義で使用されている。(※33) つまり、特質とはその物体の固有性を確保し、他の物体との差異を決定付けるものである。したがって、特質は存在の本性を変えてしまう原因になり得てしまうので、物体というカテゴリーに入れられる。反対に、属性はその存在の本性を何も変えることはなく、あくまで物体の限界面において成立するものである。したがって、属性は非物体というカテゴリーに入れられる。
そして、ドゥルーズの内在的発生論の立場が、ストア派においても見て取れる。「切る」という出来事或いは「切られる」という出来事は、明らかにナイフや肉といったものから表出してきたものであって、そこに超越的な何かを設定する必要はない。また、それらの非物体的な出来事は、決して目に見えるものではない。ナイフや肉のどこに「切る」や「切られる」といった作用を見て取ることができるだろうか。切っているのはあくまでナイフであり、切られているのはあくまで肉である。これは第一章で確認したように、出来事が存在ではなく生成の側にあることに裏付けられている。ここでは、出来事は非物体的なものに含まれるため、非物体的なものも生成の側にあるということができるだろう。
また、「物体であるということは、言い換えると、そこに何らかの個体化が絶えず存在するということになる」(※34) 。ここで述べられている個体化とは、原因である物体と純粋な結果(効果)である非物体的なものの間の混合状態である。つまり、物体である肉は「切られる」という出来事、すなわち「切られる」という一つの純粋な効果を得ることで、そのかたちを変形させ、その出来事と混ざり合う。(この場合、「切られた肉」というのが混合状態に当たる。)ナイフによって切られ分割された肉は、その形を変えただけであって、本性上の変化は何もない。これは言い換えれば、非物体的なものがその物体の個体化をもたらしたということになる。非物体的な効果がなければ、物体は非物体的なものと混合状態にはならない。このことから、非物体的な出来事は前個体的なものということができる。なぜならば、いかなる物体にもその属性を付与していない時点での出来事は、いかなる物体にも所有されていないからである。つまり、非物体的な出来事はその出来事そのものの時間を継続し、或る一点で物体に属性として付与されるのである。出来事そのものの時間とは第一章で述べた永遠の時間のことである。また、個体化とは一つの因果関係の帰結という意味で、その混合状態の固定化ということもできる。この個体化(固定化)が形成されるのは、まさしくドゥルーズが述べている現在の時間である。現在の時間とは、定点という性質を持ち、存在の側に属するものであった。
ところで、この能動受動の関係から、第一章で曖昧にしていた問題を解決することができるだろう。それは永遠の時間に位置する出来事を我々が無理矢理抽出してくるのか、それともブスケの言うように、出来事とは受肉というような手段を用いて現実化するのか、といった問いである。前者のベクトルは、「我々から出来事」であるのに対し、後者のベクトルは「出来事から我々」というものであった。これはいずれも微妙に異なる事柄について述べている。前者の場合、我々人間という物体から出来事という非物体的なものを産出している限りで、出来事を非物体的な結果であるとみなしている。それに対して後者は、非物体的な出来事が一つの属性として、我々人間という物体と混合していることを指す。しかし、出来事というのは、必ず原因が物体であり、その結果(効果)として見出され得るものであった。したがって、ストア派又はドゥルーズの観点からは、ブスケの言う受肉は、その出来事の原因となるようなものを無視しているということができる。
※28 エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論―附:江川隆男「出来事と自然哲学」』江川隆男訳、月曜社、2006年 p.136
※29 同書 p.138
※30 具体的には、表現可能なもの(レクトン)・空虚・場所・時間の4つを指す。(同書 p.9参照。
※31ブレイエ前掲注(28) p.99参照。
※32ストア派はこのような非物体的な結果の結び付き、すなわち非物体的なものが一種の原因になるようなことを「準-原因」と名付ける。これは物体と非物体的なものが全く系列の異なるものだということを示している。
※33同書 p.36 参照。
※34同書 p.136