第二章第二節
第二節:ベルクソンの潜在性
ドゥルーズはこのような問いに対して、ベルクソンの思想をそのまま受け継ぎ援用することによって出来事の本質を導き出している。それは、潜在性の概念であり、この概念は出来事の時間、すなわち永遠の時間と称されるものに大きく依拠している。可能性が現在の時間と深く結び付いているのと同様、潜在性は永遠の時間の概念と深く関わっているということになる。
まず、第一章では出来事の時間体系が永遠の時間に属していることを確認した。それは現在性を欠くパラドックスから構成されていたが、決して時間が流れていないというわけではない。もちろん、我々が普段感じている通常の時間の流れとは大きく異なるものであったが、そこでは出来事が永遠の過去に起こり、全時間を継続して永遠の未来に終わることから、時間が流れているという事実は見て取れる。しかしながら、永遠の時間とはもはや、過去・現在・未来といった断面をも必要としない。むしろ、そのような分節化を施してしまったら、永遠の時間ではなくなってしまう。(※20)この点について檜垣は以下のように述べる。「流れをそのまま捉えようとするならば、それは分断されてはならない。なぜならばそのときに、流れはすでに流れでなくなるからである」(※21) 。もし仮に、流れというものを分断して考えてしまったら、それは時間の流れを一つの空間(※22) として捉えてしまっており、「流れ」そのものの説明になっていないとベルクソンは説く。つまり、いくら時間の流れを細分化された瞬間に定めても、その区分けされた前と後の間には必ず隔たりがあるため、結果的に時間を空間と同一視してしまい、時間の流れの説明にはなっていないということである。
音楽のメロディーなどはその典型的な例として挙げることができる。例えば、音楽のメロディー、すなわち音楽の流れを把握する際に、我々はどのようにしてそれを知ることができるだろうか。この場合、メロディーを構成している個々の要素は、「ド」や「レ」等といった一つ一つの音階とその時間的な長さである。しかし、いくらその構成単位を分割し調べてみたところで、そこからメロディーを捉えることはできない。むしろ、メロディーというものは分割してしまった時点でその特性を失ってしまう。切り離されたメロディーの諸部分はもはやメロディーと呼べるものではなく、メロディーの連続性をそこに見て取ることはできない。したがって、メロディー、音楽の流れというものは多数の異質な音が相互に連関し合い、密接に結びついた連続性ということができるであろう(※23) 。
このことから、永遠の時間とは本性上、分節化することが不可能な連続した不断の流れのことを指す。それは、またもやパラドックス的ではあるが、提示することが不可能なものである。なぜなら、出来事に関して明確な始まりと終わりを定めることができないのならば、その出来事を貫いている永遠の時間もまた、過去・現在・未来といった区分けをすることができず、当然明確な始まりや終わりがあるわけではないからである。提示することができるのはあくまで現在だけであり、永遠の時間は流れという全体性そのもののことを指す。
また前節では、ライプニッツの思想から導き出される出来事の(共立)可能性を排除した。このことから、永遠の時間というものが未決定性を含意しているという帰結を導き出すことができる。というのも、あらかじめ決定されたルートを辿らない出来事は、それ自体どのように生成していくかを把握できないものだからである。したがって、その流れを構成しているのは提示不可能で未決定なもの、すなわち潜在的なものとなる。
潜在性とは、可能性のように先行するものを前提としない。それは、ありとあらゆる方向性を含みながらも、本性上未決定であるが故に、決して現実化されることはない。ただし、それは決して「仮構的(fictif)ではなく、まさに流れのなかで実在的(réel)である当のもの」(※24) である。つまり、「出来事が起こる或いは起こらない」と記述している時点ですでに可能性に準拠していることの表れなのである。そうではなくて、出来事というものは、そのような可能性自体を生成していくものなのである。なぜならば、可能性に依拠している場合、それがいくら無限に想定されたとしても、「想定する」という時点で、その出来事は或る程度決定されている(現実化してしまっている)からである。そうなると、出来事固有の本質である生成の説明になっていない。生成とは、言い換えれば、新たなものを創造していく行為そのもののことを指す。さらに、その新たなものとは、想定の範囲外をも包括する多様なものでなければならない。なぜならば、想定の範囲内から導き出されるものには、全く新しさが伴っていないからである。つまり、可能性だけでは、この多様性を説明しきることはできない。出来事が起こる或いは起こらないといった複数の選択肢を想定するのではなく、その複数の選択肢そのものを形成していくような作用、これが潜在性の概念である。
したがって、出来事は決して前節で述べたような、起こるか起こらないかの二者択一ではない。それは起こるかどうか、起こらないかどうかということさえも想定できないものである。一つの出来事は、潜在的であるが故に、何も欠けていない。(※25) 未決定であるということは、その出来事の多様性を認めることである。可能性だけでは「予期せぬ方向」を捉えることはできない。しかし、潜在性はその「予期せぬ方向」という多様性さえも包括しているものなのである。したがって、潜在的な出来事とは何も欠けていてはならない。この限りにおいて、出来事はかたちになっていない流れそのものということができるだろう。
確かに、現在において我々は出来事にかたちを与えることができる。回顧的な視点に立てば、出来事には様々な可能性があったと述べることもできる。しかしながら、それはあくまで二次的なものに過ぎず、出来事や永遠の時間を捉えるものではない。出来事はかたちになりはするが、未だかたちとして現出できないもの、そのかたちへと向かっていく働きそのもののことを指す。(※26) このことから、第一章で述べた空白の現在という考え方は、この潜在性によって保証されているということがいえるだろう。つまり、出来事が今まさに起こっているにもかかわらず、その当の現在が空白だということは、潜在的な出来事が未だ未決定性を含意しながら生起し続けているといえるからである。またこれは、出来事が可能性のような必然的経路を辿っているのではなく、出来事が未決定であるが故に予測不可能な、偶発的産物であるということを意味している。
出来事とは、それが具体化される現在によっては語られることはない。それは出来事がはじめから個別的でも一般的でもない、ある種の普遍性に根差しているということを意味している。(※27) 出来事はその普遍性の中から、何か特異な事柄として現出してくるのである。
ところで、その特異性を初期ストア哲学ではどのように捉えていたのか。また、かたちとして現出できないという出来事の不可視性を彼らはどのように捉えていたのか。次章では主に、初期ストア哲学の「非物体的なもの」に焦点を当てながら、出来事に関して別の切り口から考察していくこととする。
※20したがって、前文で説明した「出来事は永遠の過去に起こり、全時間を継続して永遠の未来に終わる」という表現はあくまで時間の流れを便宜的に区別し、そのベクトルの方向性を示したかっただけである。
※21檜垣前掲注(15) p.29
※22ここで述べられている「空間」とは、一つのまとまりのようなもの指すのだが、ベルクソンはそのまとまりのことを「空間」という言葉で説明しているため、その言葉をそのまま使用することとする。
※23同書p.31参照。
※24檜垣前掲注(18) p.17
※25ホルワード前掲注(13) p.100参照。
※26檜垣前掲注(18) pp.45-48参照。
※27檜垣前掲注(15) p.66参照。
ドゥルーズはこのような問いに対して、ベルクソンの思想をそのまま受け継ぎ援用することによって出来事の本質を導き出している。それは、潜在性の概念であり、この概念は出来事の時間、すなわち永遠の時間と称されるものに大きく依拠している。可能性が現在の時間と深く結び付いているのと同様、潜在性は永遠の時間の概念と深く関わっているということになる。
まず、第一章では出来事の時間体系が永遠の時間に属していることを確認した。それは現在性を欠くパラドックスから構成されていたが、決して時間が流れていないというわけではない。もちろん、我々が普段感じている通常の時間の流れとは大きく異なるものであったが、そこでは出来事が永遠の過去に起こり、全時間を継続して永遠の未来に終わることから、時間が流れているという事実は見て取れる。しかしながら、永遠の時間とはもはや、過去・現在・未来といった断面をも必要としない。むしろ、そのような分節化を施してしまったら、永遠の時間ではなくなってしまう。(※20)この点について檜垣は以下のように述べる。「流れをそのまま捉えようとするならば、それは分断されてはならない。なぜならばそのときに、流れはすでに流れでなくなるからである」(※21) 。もし仮に、流れというものを分断して考えてしまったら、それは時間の流れを一つの空間(※22) として捉えてしまっており、「流れ」そのものの説明になっていないとベルクソンは説く。つまり、いくら時間の流れを細分化された瞬間に定めても、その区分けされた前と後の間には必ず隔たりがあるため、結果的に時間を空間と同一視してしまい、時間の流れの説明にはなっていないということである。
音楽のメロディーなどはその典型的な例として挙げることができる。例えば、音楽のメロディー、すなわち音楽の流れを把握する際に、我々はどのようにしてそれを知ることができるだろうか。この場合、メロディーを構成している個々の要素は、「ド」や「レ」等といった一つ一つの音階とその時間的な長さである。しかし、いくらその構成単位を分割し調べてみたところで、そこからメロディーを捉えることはできない。むしろ、メロディーというものは分割してしまった時点でその特性を失ってしまう。切り離されたメロディーの諸部分はもはやメロディーと呼べるものではなく、メロディーの連続性をそこに見て取ることはできない。したがって、メロディー、音楽の流れというものは多数の異質な音が相互に連関し合い、密接に結びついた連続性ということができるであろう(※23) 。
このことから、永遠の時間とは本性上、分節化することが不可能な連続した不断の流れのことを指す。それは、またもやパラドックス的ではあるが、提示することが不可能なものである。なぜなら、出来事に関して明確な始まりと終わりを定めることができないのならば、その出来事を貫いている永遠の時間もまた、過去・現在・未来といった区分けをすることができず、当然明確な始まりや終わりがあるわけではないからである。提示することができるのはあくまで現在だけであり、永遠の時間は流れという全体性そのもののことを指す。
また前節では、ライプニッツの思想から導き出される出来事の(共立)可能性を排除した。このことから、永遠の時間というものが未決定性を含意しているという帰結を導き出すことができる。というのも、あらかじめ決定されたルートを辿らない出来事は、それ自体どのように生成していくかを把握できないものだからである。したがって、その流れを構成しているのは提示不可能で未決定なもの、すなわち潜在的なものとなる。
潜在性とは、可能性のように先行するものを前提としない。それは、ありとあらゆる方向性を含みながらも、本性上未決定であるが故に、決して現実化されることはない。ただし、それは決して「仮構的(fictif)ではなく、まさに流れのなかで実在的(réel)である当のもの」(※24) である。つまり、「出来事が起こる或いは起こらない」と記述している時点ですでに可能性に準拠していることの表れなのである。そうではなくて、出来事というものは、そのような可能性自体を生成していくものなのである。なぜならば、可能性に依拠している場合、それがいくら無限に想定されたとしても、「想定する」という時点で、その出来事は或る程度決定されている(現実化してしまっている)からである。そうなると、出来事固有の本質である生成の説明になっていない。生成とは、言い換えれば、新たなものを創造していく行為そのもののことを指す。さらに、その新たなものとは、想定の範囲外をも包括する多様なものでなければならない。なぜならば、想定の範囲内から導き出されるものには、全く新しさが伴っていないからである。つまり、可能性だけでは、この多様性を説明しきることはできない。出来事が起こる或いは起こらないといった複数の選択肢を想定するのではなく、その複数の選択肢そのものを形成していくような作用、これが潜在性の概念である。
したがって、出来事は決して前節で述べたような、起こるか起こらないかの二者択一ではない。それは起こるかどうか、起こらないかどうかということさえも想定できないものである。一つの出来事は、潜在的であるが故に、何も欠けていない。(※25) 未決定であるということは、その出来事の多様性を認めることである。可能性だけでは「予期せぬ方向」を捉えることはできない。しかし、潜在性はその「予期せぬ方向」という多様性さえも包括しているものなのである。したがって、潜在的な出来事とは何も欠けていてはならない。この限りにおいて、出来事はかたちになっていない流れそのものということができるだろう。
確かに、現在において我々は出来事にかたちを与えることができる。回顧的な視点に立てば、出来事には様々な可能性があったと述べることもできる。しかしながら、それはあくまで二次的なものに過ぎず、出来事や永遠の時間を捉えるものではない。出来事はかたちになりはするが、未だかたちとして現出できないもの、そのかたちへと向かっていく働きそのもののことを指す。(※26) このことから、第一章で述べた空白の現在という考え方は、この潜在性によって保証されているということがいえるだろう。つまり、出来事が今まさに起こっているにもかかわらず、その当の現在が空白だということは、潜在的な出来事が未だ未決定性を含意しながら生起し続けているといえるからである。またこれは、出来事が可能性のような必然的経路を辿っているのではなく、出来事が未決定であるが故に予測不可能な、偶発的産物であるということを意味している。
出来事とは、それが具体化される現在によっては語られることはない。それは出来事がはじめから個別的でも一般的でもない、ある種の普遍性に根差しているということを意味している。(※27) 出来事はその普遍性の中から、何か特異な事柄として現出してくるのである。
ところで、その特異性を初期ストア哲学ではどのように捉えていたのか。また、かたちとして現出できないという出来事の不可視性を彼らはどのように捉えていたのか。次章では主に、初期ストア哲学の「非物体的なもの」に焦点を当てながら、出来事に関して別の切り口から考察していくこととする。
※20したがって、前文で説明した「出来事は永遠の過去に起こり、全時間を継続して永遠の未来に終わる」という表現はあくまで時間の流れを便宜的に区別し、そのベクトルの方向性を示したかっただけである。
※21檜垣前掲注(15) p.29
※22ここで述べられている「空間」とは、一つのまとまりのようなもの指すのだが、ベルクソンはそのまとまりのことを「空間」という言葉で説明しているため、その言葉をそのまま使用することとする。
※23同書p.31参照。
※24檜垣前掲注(18) p.17
※25ホルワード前掲注(13) p.100参照。
※26檜垣前掲注(18) pp.45-48参照。
※27檜垣前掲注(15) p.66参照。