第一章第二節
第二節:「受肉」としての出来事
ここで、ジョー・ブスケの言葉をドゥルーズの思想と照らし合わせてみることにしよう。そうすることで、我々はさらに永遠の時間について思索を深め、そこから出来事に関する諸々の特徴を把握することができる。ブスケは以下のように言う。
私の傷は私よりも前に実在していた。私は傷を受肉するために生まれた。(※12)
私はその傷を出来事として体現するために生まれた。なぜなら私はその傷を、事物の状態ないし生きられた状況として脱体現することができたからである。(※13)
ブスケは第一次世界大戦の時に負った傷をそのとき起こった出来事としてみなさない。そうではなくて、その傷は彼が負傷する前にもはや存在していたという。これは、彼が戦争に行って傷を受けたわけではなく、そもそも傷という普遍的な出来事が根本にあり、それが彼のもとで現実化(=受肉)されたということを意味している。小泉は以下のように述べる。「出来事は現在を避け過去と未来へ逃れさるけれど、出来事は生ける現在において実現する。出来事が、今ここで身体や物体に受肉することだけは真実である」(※14) 。定点を持たない永遠の時間、そこを流れている出来事は受肉されるまでは誰のものでもない。この限りにおいて、出来事は普遍的なのである。誰かに受肉されてしまった傷は、その普遍性を失い個別的な出来事として処理される。ここでの普遍性は、誰にも所有されていないという観点から、非人称的・前個体的と言い換えることもできるだろう。
また、出来事には始まりもなければ終わりもなかった。このことから、出来事は反復するという性質を持つということができる。つまり、ブスケが過去に受肉した傷と今誰かが受肉する傷と未来に誰かが受肉するであろう傷は、傷を普遍的な出来事としてみた場合、そのどれもが同じものなのである。確かに、個体的にみた場合、そのどれもが同じ傷というわけではない。傷を受けた場所が違えば、その傷の深さも各々で異なるだろう。したがって、その傷という出来事の固有性・或いは特異性というものはここで確保される。過去の傷と現在の傷と未来の傷はその各々が受肉された段階で、決定的な差異が生じてくるのだ。つまり、今ここで負った傷という出来事は別の傷(過去で誰かが負った傷や未来で誰かが負うであろう傷)という出来事に限定されるかたちで表出してくる。
さらに、その出来事を体現化するために生まれてきた私や私の身体といったものは、その出来事を現実化させるという役割を担っている。それは言い換えれば、私や私の身体といった存在が、その出来事が普遍的なところに位置する証明としての役割を担っているということになる。出来事を現実化できたということは、私や私の身体がその出来事を現実化させるのにふさわしかったといえる。つまり、私という鏡に反射させることで出来事の存在を確認できたのである。「脱体現」とは、受肉という手段で出来事を永遠の時間から解放させることであり、その一方で、受肉される以前の出来事を反実現的に表す契機でもある。
ここで注意すべきは、ブスケがその傷という出来事にある種の主体性を与えているという点である。確かに、傷という出来事は普遍的なものに根差しているかもしれない。人は自らの身体を出来事に捧げ、受肉という手段でそれを体現(現実化)するわけだが、「受肉」という言葉から連想されるものは、明らかにその人(或いは、その人の身体)が受け手に回っているということである。つまり、そこでは出来事から我々に対してベクトルが向けられているのであって、決してその逆ではない。そうなると、その出来事を引き起こした原因は我々ではなく別の何かであるのか、という問いが生じてくる。しかし、前に述べたように、永遠の時間に位置する出来事とは、あくまで我々が抽出してくることによって初めて、それが今ある世界へと現れてくる。我々や我々の身体がなければ、出来事もまた体現されることはなかったのである。この限りにおいて、たとえ出来事の主体性は認めることができても、それは我々や我々の身体がなければ決してかたちに成り得ないので、両者は相補的な関係といえるだろう。とりわけ、この出来事に関する原因の問題は第三章で取り上げる初期ストア哲学の思想と照らし合わせることによって、さらに深く検討することとする。
また、ブスケの表現からは、まるで出来事が意志を持っているかのように、自発的に発生してきたかのように捉えることもできる。もしそうであるならば、果たしてブスケの負った傷は、第一次世界大戦である必要があったのか。というのも、出来事が起こるか起こらないかということを、すべて出来事自らで決定できるならば、ブスケが負った傷は第一次世界大戦でなければならない必然性はどこにもないからである。ブスケが第一次世界大戦で傷を負うという出来事は一体誰が決めたのか、或いは何がそう差し向けたのか。これは言い換えると、出来事というものが起こるべくして起こったのか、それとも出来事は全くの偶然の産物として起こってしまったのか、という疑問に直結する。これは、出来事が可能性・潜在性の概念と密接に関係しているということを意味している。したがって、次章では出来事の可能性・潜在性をライプニッツの思想とベルクソンの思想を比較しながら、さらに考察を加えることとする。
※12 ドゥルーズ前掲注(6) p.258
※13 ピーター・ホルワード『ドゥルーズと創造の哲学』松本潤一郎訳、青土社、2010年 p.101
※14 小泉前掲注(7) p.210
ここで、ジョー・ブスケの言葉をドゥルーズの思想と照らし合わせてみることにしよう。そうすることで、我々はさらに永遠の時間について思索を深め、そこから出来事に関する諸々の特徴を把握することができる。ブスケは以下のように言う。
私の傷は私よりも前に実在していた。私は傷を受肉するために生まれた。(※12)
私はその傷を出来事として体現するために生まれた。なぜなら私はその傷を、事物の状態ないし生きられた状況として脱体現することができたからである。(※13)
ブスケは第一次世界大戦の時に負った傷をそのとき起こった出来事としてみなさない。そうではなくて、その傷は彼が負傷する前にもはや存在していたという。これは、彼が戦争に行って傷を受けたわけではなく、そもそも傷という普遍的な出来事が根本にあり、それが彼のもとで現実化(=受肉)されたということを意味している。小泉は以下のように述べる。「出来事は現在を避け過去と未来へ逃れさるけれど、出来事は生ける現在において実現する。出来事が、今ここで身体や物体に受肉することだけは真実である」(※14) 。定点を持たない永遠の時間、そこを流れている出来事は受肉されるまでは誰のものでもない。この限りにおいて、出来事は普遍的なのである。誰かに受肉されてしまった傷は、その普遍性を失い個別的な出来事として処理される。ここでの普遍性は、誰にも所有されていないという観点から、非人称的・前個体的と言い換えることもできるだろう。
また、出来事には始まりもなければ終わりもなかった。このことから、出来事は反復するという性質を持つということができる。つまり、ブスケが過去に受肉した傷と今誰かが受肉する傷と未来に誰かが受肉するであろう傷は、傷を普遍的な出来事としてみた場合、そのどれもが同じものなのである。確かに、個体的にみた場合、そのどれもが同じ傷というわけではない。傷を受けた場所が違えば、その傷の深さも各々で異なるだろう。したがって、その傷という出来事の固有性・或いは特異性というものはここで確保される。過去の傷と現在の傷と未来の傷はその各々が受肉された段階で、決定的な差異が生じてくるのだ。つまり、今ここで負った傷という出来事は別の傷(過去で誰かが負った傷や未来で誰かが負うであろう傷)という出来事に限定されるかたちで表出してくる。
さらに、その出来事を体現化するために生まれてきた私や私の身体といったものは、その出来事を現実化させるという役割を担っている。それは言い換えれば、私や私の身体といった存在が、その出来事が普遍的なところに位置する証明としての役割を担っているということになる。出来事を現実化できたということは、私や私の身体がその出来事を現実化させるのにふさわしかったといえる。つまり、私という鏡に反射させることで出来事の存在を確認できたのである。「脱体現」とは、受肉という手段で出来事を永遠の時間から解放させることであり、その一方で、受肉される以前の出来事を反実現的に表す契機でもある。
ここで注意すべきは、ブスケがその傷という出来事にある種の主体性を与えているという点である。確かに、傷という出来事は普遍的なものに根差しているかもしれない。人は自らの身体を出来事に捧げ、受肉という手段でそれを体現(現実化)するわけだが、「受肉」という言葉から連想されるものは、明らかにその人(或いは、その人の身体)が受け手に回っているということである。つまり、そこでは出来事から我々に対してベクトルが向けられているのであって、決してその逆ではない。そうなると、その出来事を引き起こした原因は我々ではなく別の何かであるのか、という問いが生じてくる。しかし、前に述べたように、永遠の時間に位置する出来事とは、あくまで我々が抽出してくることによって初めて、それが今ある世界へと現れてくる。我々や我々の身体がなければ、出来事もまた体現されることはなかったのである。この限りにおいて、たとえ出来事の主体性は認めることができても、それは我々や我々の身体がなければ決してかたちに成り得ないので、両者は相補的な関係といえるだろう。とりわけ、この出来事に関する原因の問題は第三章で取り上げる初期ストア哲学の思想と照らし合わせることによって、さらに深く検討することとする。
また、ブスケの表現からは、まるで出来事が意志を持っているかのように、自発的に発生してきたかのように捉えることもできる。もしそうであるならば、果たしてブスケの負った傷は、第一次世界大戦である必要があったのか。というのも、出来事が起こるか起こらないかということを、すべて出来事自らで決定できるならば、ブスケが負った傷は第一次世界大戦でなければならない必然性はどこにもないからである。ブスケが第一次世界大戦で傷を負うという出来事は一体誰が決めたのか、或いは何がそう差し向けたのか。これは言い換えると、出来事というものが起こるべくして起こったのか、それとも出来事は全くの偶然の産物として起こってしまったのか、という疑問に直結する。これは、出来事が可能性・潜在性の概念と密接に関係しているということを意味している。したがって、次章では出来事の可能性・潜在性をライプニッツの思想とベルクソンの思想を比較しながら、さらに考察を加えることとする。
※12 ドゥルーズ前掲注(6) p.258
※13 ピーター・ホルワード『ドゥルーズと創造の哲学』松本潤一郎訳、青土社、2010年 p.101
※14 小泉前掲注(7) p.210