第一章第一節
第一章:純粋生成としての出来事
第一節:出来事の時間概念
まず、出来事とは何であるのかという問いに対して、ドゥルーズはその切り口の一つとして、発生論的な考えを提示している。これは、あくまで出来事が超越論的な位置を占めるものではなく、その存在の内部から生じているという意味での発生論である。つまり、ドゥルーズは、出来事とはdevenir(成る)の次元に位置するものであり、決してêtre(在る)の次元に位置するものではないということを明確に指摘している。これは一体どういうことを意味するのだろうか。ここで、ルイス・キャロルの作品に出てくる主人公アリスにおける純粋生成のパラドックスを検証することによって、その考えを明晰にすることができるだろう。
私が「アリスが拡大する」と言うとき、私が言いたいことは、アリスがかつてそうであったのと比べて、アリスはもっと大きくなるということである。しかしまた、まさにそれによって、アリスが今そうであるのと比べて、アリスはもっと小さくなる。もちろん、アリスがもっと大きいこととアリスがもっと小さいことは、同時ではない。しかし、アリスがもっと大きくなることとアリスがもっと小さくなることは、同時である。アリスは今はもっと大きい、アリスは以前はもっと小さかった。しかし、そうであったのに比べてより大になることと、そうなるのに比べてより小となすことは、同じときに一挙にである。(※6)
何かが大きくなるということは、以前より大きくなったという未来をもつと同時に、その未来より小さかったという過去をもつ。言い換えれば、未来へ向けて大きくなると同時に、過去へ向けては小さくなるのである。つまり、出来事における時間のベクトルは未来と過去の二方向に向けられていて、それらは常に同時に生じる。この場合、「アリスが大きくなる(或いは、小さくなる)」ことが出来事に相当するのだが、大きくなることが出来事として成立するためには、それが同時に小さくなるという反作用が表現され得る限りにおいてである。もちろん、大きくあることや小さくあることというその存在形式それ自体は決して両立することはない。ドゥルーズはこのように述べている。
これがドゥルーズの解釈した純粋生成のパラドックスである。「être(在る)・すなわち存在」の側は現在であることに縛られ、そこでは絶え間ない現在の更新があるだけである。それは過去とも未来とも断絶された、言わば定点のような役割を果たしている。現在とは、「過ぎ去った現在」・「過ぎ去る現在」・「過ぎ去るであろう(到来する)現在」などと、その一点から動かないものとしてあり続けるものということができる。これに対し「devenir(成る)・すなわち純粋生成」の側には現在性というものはなく、あるのは過去と未来の二方向である。つまり、出来事は「現在を避け、過去と未来へ逃れ去る」(※7) ような、一見矛盾したものを指す。
例えば、或る一本の直線を想定してみる。その両端は左右に無限に伸びていることとする。次に、その直線上に或る特定の区間を設定し、そこから直線の両端に向けて覆いをかける。数学的に置き換えてみると、或る一本の直線がx線軸であり、そのx線軸上で0以下と3以上のxを選択した時のような状態に当たる。ここで分かるのは、その特定の区間、つまり0よりも大きく3よりも小さいという区間が残っているということである。この特定の区間を便宜的に「出来事」と呼ぶことにする。(出来事は、大きくなると同時に小さくなるものである。)そして、このx軸全体を「時間」と呼ぶことにする。このとき、数が大きい方を未来とし、数が小さい方を過去とする。この場合、3以上のxは、アリスが「(既に)大きくなった」に対応し、0以下のxには、アリスが「(かつて)小さかった」に対応する。
このx線軸上に「出来事」を現出させるためには、0よりも大きく3よりも小さいという特定の区間をとることによってではない。なぜならば、今問題とされているものは0以下と3以上の領域を包括するxだからである。したがって、その「出来事」と呼ばれる特定の区間は、「(かつて)小さかった」という0以下のxと「(既に)大きくなった」という3以上のxによって挟むことによってしか現出され得ない。つまり、出来事が明らかに起こっていない前の状態と、出来事が明らかに起こった後の状態との間にあるものとしてしか規定できないのである。
このことから、出来事というものは「(かつて)小さかった」といえる限りにおいて、「大きくなる」という出来事がその後に起こったのである。また、「(既に)大きくなった」といえる限りにおいて、「大きくなる」という出来事がその前に起こったということができる。しかしながら、このことは出来事(大きくなる=小さくなる)という特定の開区間によって表される空白(中間休止)が生じることによって、はじめてその前と後が生じるものであった。したがって、その空白の前に生じる「(かつて)小さかった」と、後に生じる「(既に)大きくなった」は、この空白の出来事が生起することによって初めて、同時に(一挙に)このx線軸上に出現することになる。だから出来事は、一回で同時に二つの方向性を孕んでいるということができるのである。
また、この空白こそが「出来事が現在を避ける」という性質を説明してくれる。出来事は、常にその前と後の組によってしか現実的に規定され得ない。なぜならば、上で述べたように、「(かつて)小さかった」といえなければ大きくなることはないし、「(既に)大きくなった」のでなければ、大きくなるという出来事は起こってないからである。にもかかわらず、この前と後の組は決して出来事それ自体を指しているわけではない。出来事とは、あくまで前と後の組によって導き出される空白のことを指す。そして、その前と後の組は、この空白を前提としている。この空白を出来事としてみなす限りにおいて、出来事は「現在を避ける」ということができる。
確かに、日常的な出来事は今現在、目の前で起こっているかもしれない。しかしながら、その今現在目の前で起こっている出来事そのものは、決して目に見えるものではない(存在しているわけではない)。なぜなら、「アリスが大きくなる(或いは、小さくなる)」という時、すなわち出来事の生成のベクトルが一方向に限られる時には、目に見える現象として確認することができる。しかし、出来事というのは相反する二つの方向性を孕んだものにほかならないからである。その二つの方向性を一挙に目に見える現象として捉えることは不可能である。アリスが大きくなったり小さくなったりすることを、同時に目に見える現象として捉えるのは不可能だろう。また、アリスが現在進行形で大きくなっていると同時に小さくなっているわけでもない。したがって、これはあくまで論理的なレベルでの話であって、日常的な出来事を指しているわけではない。この限りにおいて、ドゥルーズは「純粋」生成という語を用いている。
また、このことから以下のような帰結が生じてくる。つまり、出来事に関しては明確な境界線が存在しないということである。というよりもむしろ、出来事に関する境界線は否定的にしか規定できない、といった方が正しい。上で述べたように、純粋生成としての出来事は過去と未来の二方向に時間のベクトルが向けられている。そこでは空白の現在を一種の境界線として扱っていたのだが、それは言い換えれば、出来事が起こる特定の時間を指定することができない、ということになるのではないだろうか。なぜならば、今ここで問題となっている現在、すなわち境界線の役割を担っていると思われていたこの現在こそ、不在・空白だということを意味しているからである。つまり、「否定的にしか規定できない」というのは、出来事が明らかに起こっていない状態と、出来事が明らかに起こった後の状態との間における開区間・空白の現在がその境界線の役割を放棄していることを意味し、それは出来事がいつ始まり、またいつ終わったのかを厳密に指定することができないということをも暗に示している。
さらに、出来事における特定の時間を指定することができない、つまり出来事がいつ始まりいつ終わるのかという生成消滅を明確に設定できないということは、その時間の無限同一性もまた保証している、とドゥルーズは述べている。無限同一性とは、文字通り、その分離された両者が際限なく同一のものとしてみなされてしまうという事態を意味している。この場合、分離した両者とは過去と未来であり、分離されたものは現在である。出来事とは、その前の状態と後の状態に包括された区域から否定的に規定されるものであった。その前の状態と後の状態というものが過去と未来に相当する。そのため、出来事を挟んだ過去と未来というものは、ある意味で出来事(現在)を切断・分離しているということができるだろう。また、二つの方向に分け隔てられた現在には、もはや特別な性質を与えるような必要はない。なぜならば、現在はどこまでいっても無際限に過去と未来に置き換えられてしまうからである。つまり、あらゆる現在が過去と未来に際限なく分割された結果、過去と未来は限りなく接近し、ついにそれらは同一のものとしてみなされてしまうのである。
ここで、ドゥルーズがベルクソンの思想から援用した「微分化」の作用を適用させることは有効であるように思われる。上で述べたように、出来事を数学的に解釈した場合、その出来事、すなわち或る特定の区間(0よりも大きく3よりも小さい区間)というものは、あくまで任意の区間であった。もちろん、この区間を0から2の間と定めることもできれば、0から1の間と定めることもできる。つまり、どのような区間を設けたとしても、その区間は「微分化」の作用を用いることによって、無限に分割することができてしまうのである。この考えをそのまま現在に当てはめることによって、無限同一性という概念を、より明晰に理解することが可能であろう。
また、出来事を否定的にしか規定できないということから、その出来事の空白性、すなわち空白としての現在を導き出した。空白の現在とは、言い換えれば、現在が存在しないということを暗に意味している。つまり、そこで考えられる時間体系では、現在という限定づけられた時間は存在しない。あるのは、限定づけられたもののそれぞれの端における無限性である。つまり、無限に同一のものとしてみなされた過去と未来だけである。この無限に同一のものとしてみなされた過去と未来が出来事の時間体系を担っているのであれば、両者にもまた特権的な性質を与える必要はなくなるだろう。なぜならば、それは時間そのものを構成する一つの全体を示しているからである。現在や過去・未来といった時間は、時間全体を構成する諸部分に過ぎない。そのような時間体系とは、もはや部分的に分節化されたものではなく、一つの全体として考えなくてはならないものである。
したがって、純粋生成のパラドックスから導き出された無限同一性によって、現在という特権的な地位は剥奪され、あくまで過去と未来に「分け隔てられたもの」として同一のものとしてみなされてしまう。そして、そのように分け隔てられたものは、全体としての無限な時間として提示されるのである。(ドゥルーズはここでもアリスの冒険で起こる様々な例を用いることによって、無限同一性を証明しようとしている。(※8) )
ただし、これは決して出来事が通常の時間の流れを無視しているわけではない。そうではなくて、これは出来事というものが通常の時間形式からは大きく逸脱していると考えるべきだろう。ドゥルーズは、定点となる現在を欠いた出来事とは、本性上永遠の時間(※9) に属していると考える。現在という定点、さらには過去と未来の節目を失ってしまい、それらを無限同一化してしまった出来事の時間とは、もはや過去・現在・未来という通常の時間軸の連続性を見て取ることはできない。また、出来事がいつ始まりいつ終わったのかという指定ができないにもかかわらず、出来事は我々の目の前にしっかりと現れてくる。これは出来事というものが、「永遠の昔から始まり、全時間を継続し、永遠の未来に終わる」(※10) といえるのではないだろうか。なぜならば、出来事及びその時間体系である永遠の時間とは、分節・分離・切断などといった限定づけられる作用を度外視したものにほかならなかったからである。つまり、出来事というものが、厳密にいつ始まりいつ終わるという限定づけをもはや必要としないならば、出来事は一つの無限なる全体として、すなわち「永遠の昔から始まり、前時間を継続し、永遠の未来に終わる」と語られなければならないのである。
では、我々が日常で感じている時間と一切無縁かといえば、もちろんそうではない。例えば、ある物体とある物体とが衝突するという出来事を考えてみよう。両者が近付き、接触し、離れていくという過程の中で、我々はこの衝突という出来事をいつ見出すのか。確かに我々は、「近付いて衝突して離れる」と語ることはできる。その場合は近付くという出来事、衝突するという出来事、離れるという出来事に、順序を入れているだけであって、時間的に並べているのではない。我々は、二つの運動を知覚して、そこに出来事の順序を持ち込んでから、その後で初めて、出来事に特定の時間を割り当てているのである(※11) 。つまり、永遠の時間という出来事独自の時間体系から、我々がその出来事を知覚するために無理矢理、我々が普段感じている時間体系へとその出来事を抽出してくるわけである。この限りにおいて、永遠の時間に位置していた出来事が、我々の前に現出してくる、すなわち抽象的な出来事が我々の世界という具体的な事例として現実化すると考えられる。(なお、ここで述べている現実化とは厳密な意味では現実化しているわけではない。このことについては次章のベルクソンの潜在性の概念をもとに検証していく。)
ただし、ここで留意しておきたいことは、冒頭で述べたように、この永遠の時間は決して超越論的な場所に位置するものではないということである。確かに、永遠などといったある種の普遍性を認めてしまい、我々が感じている通常の時間とは独立していると説明されると、それはプラトン(前427-前347)のようなイデア的なものを連想させてしまいかねない。しかし、ここで問題となっている永遠の時間は、あくまで出来事という我々の前に現出してきた具体的なものを支えているものであって、出来事がなければ永遠の時間もまた成立しない。したがって、永遠の時間は出来事の内部に属しているということになる。プラトンは無限なものから有限なものを導き出している。これに対してドゥルーズは、有限なものから無限なものを導き出しているといえるだろう。
※6 ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』上巻、小泉義之訳、河出書房新社、2007年 p.15
尚、この場面は『不思議の国のアリス』(河合祥一郎訳、角川書店、2010年)pp.18-22を参照。アリスが “drink me” と書かれた飲み物を飲んでしまうと、彼女の体は小さくなってしまい、また困ったアリスが “eat me” と書かれたケーキを食べてしまうと、今度は彼女の体は大きくなってしまう。
※7 小泉義之『ドゥルーズの哲学―生命・自然・未来のために』講談社、2000年 p.204
※8 ドゥルーズ前掲注(6) p.18参照。
※9 ドゥルーズはこの永遠の時間をアイオーンの時間、逆に現在の時間をクロノスの時間と称している。両者ともギリシア神話に登場する神の名前であるが、とりわけ前者は永遠・永劫などを象徴する神とみなされ、後者は時間一般を象徴する神を指す。尚、詳細については、ドゥルーズ前掲注(6) pp.283-293参照。
※10 小泉前掲注(7) p.205
※11 同書 pp.204-205参照。
第一節:出来事の時間概念
まず、出来事とは何であるのかという問いに対して、ドゥルーズはその切り口の一つとして、発生論的な考えを提示している。これは、あくまで出来事が超越論的な位置を占めるものではなく、その存在の内部から生じているという意味での発生論である。つまり、ドゥルーズは、出来事とはdevenir(成る)の次元に位置するものであり、決してêtre(在る)の次元に位置するものではないということを明確に指摘している。これは一体どういうことを意味するのだろうか。ここで、ルイス・キャロルの作品に出てくる主人公アリスにおける純粋生成のパラドックスを検証することによって、その考えを明晰にすることができるだろう。
私が「アリスが拡大する」と言うとき、私が言いたいことは、アリスがかつてそうであったのと比べて、アリスはもっと大きくなるということである。しかしまた、まさにそれによって、アリスが今そうであるのと比べて、アリスはもっと小さくなる。もちろん、アリスがもっと大きいこととアリスがもっと小さいことは、同時ではない。しかし、アリスがもっと大きくなることとアリスがもっと小さくなることは、同時である。アリスは今はもっと大きい、アリスは以前はもっと小さかった。しかし、そうであったのに比べてより大になることと、そうなるのに比べてより小となすことは、同じときに一挙にである。(※6)
何かが大きくなるということは、以前より大きくなったという未来をもつと同時に、その未来より小さかったという過去をもつ。言い換えれば、未来へ向けて大きくなると同時に、過去へ向けては小さくなるのである。つまり、出来事における時間のベクトルは未来と過去の二方向に向けられていて、それらは常に同時に生じる。この場合、「アリスが大きくなる(或いは、小さくなる)」ことが出来事に相当するのだが、大きくなることが出来事として成立するためには、それが同時に小さくなるという反作用が表現され得る限りにおいてである。もちろん、大きくあることや小さくあることというその存在形式それ自体は決して両立することはない。ドゥルーズはこのように述べている。
これがドゥルーズの解釈した純粋生成のパラドックスである。「être(在る)・すなわち存在」の側は現在であることに縛られ、そこでは絶え間ない現在の更新があるだけである。それは過去とも未来とも断絶された、言わば定点のような役割を果たしている。現在とは、「過ぎ去った現在」・「過ぎ去る現在」・「過ぎ去るであろう(到来する)現在」などと、その一点から動かないものとしてあり続けるものということができる。これに対し「devenir(成る)・すなわち純粋生成」の側には現在性というものはなく、あるのは過去と未来の二方向である。つまり、出来事は「現在を避け、過去と未来へ逃れ去る」(※7) ような、一見矛盾したものを指す。
例えば、或る一本の直線を想定してみる。その両端は左右に無限に伸びていることとする。次に、その直線上に或る特定の区間を設定し、そこから直線の両端に向けて覆いをかける。数学的に置き換えてみると、或る一本の直線がx線軸であり、そのx線軸上で0以下と3以上のxを選択した時のような状態に当たる。ここで分かるのは、その特定の区間、つまり0よりも大きく3よりも小さいという区間が残っているということである。この特定の区間を便宜的に「出来事」と呼ぶことにする。(出来事は、大きくなると同時に小さくなるものである。)そして、このx軸全体を「時間」と呼ぶことにする。このとき、数が大きい方を未来とし、数が小さい方を過去とする。この場合、3以上のxは、アリスが「(既に)大きくなった」に対応し、0以下のxには、アリスが「(かつて)小さかった」に対応する。
このx線軸上に「出来事」を現出させるためには、0よりも大きく3よりも小さいという特定の区間をとることによってではない。なぜならば、今問題とされているものは0以下と3以上の領域を包括するxだからである。したがって、その「出来事」と呼ばれる特定の区間は、「(かつて)小さかった」という0以下のxと「(既に)大きくなった」という3以上のxによって挟むことによってしか現出され得ない。つまり、出来事が明らかに起こっていない前の状態と、出来事が明らかに起こった後の状態との間にあるものとしてしか規定できないのである。
このことから、出来事というものは「(かつて)小さかった」といえる限りにおいて、「大きくなる」という出来事がその後に起こったのである。また、「(既に)大きくなった」といえる限りにおいて、「大きくなる」という出来事がその前に起こったということができる。しかしながら、このことは出来事(大きくなる=小さくなる)という特定の開区間によって表される空白(中間休止)が生じることによって、はじめてその前と後が生じるものであった。したがって、その空白の前に生じる「(かつて)小さかった」と、後に生じる「(既に)大きくなった」は、この空白の出来事が生起することによって初めて、同時に(一挙に)このx線軸上に出現することになる。だから出来事は、一回で同時に二つの方向性を孕んでいるということができるのである。
また、この空白こそが「出来事が現在を避ける」という性質を説明してくれる。出来事は、常にその前と後の組によってしか現実的に規定され得ない。なぜならば、上で述べたように、「(かつて)小さかった」といえなければ大きくなることはないし、「(既に)大きくなった」のでなければ、大きくなるという出来事は起こってないからである。にもかかわらず、この前と後の組は決して出来事それ自体を指しているわけではない。出来事とは、あくまで前と後の組によって導き出される空白のことを指す。そして、その前と後の組は、この空白を前提としている。この空白を出来事としてみなす限りにおいて、出来事は「現在を避ける」ということができる。
確かに、日常的な出来事は今現在、目の前で起こっているかもしれない。しかしながら、その今現在目の前で起こっている出来事そのものは、決して目に見えるものではない(存在しているわけではない)。なぜなら、「アリスが大きくなる(或いは、小さくなる)」という時、すなわち出来事の生成のベクトルが一方向に限られる時には、目に見える現象として確認することができる。しかし、出来事というのは相反する二つの方向性を孕んだものにほかならないからである。その二つの方向性を一挙に目に見える現象として捉えることは不可能である。アリスが大きくなったり小さくなったりすることを、同時に目に見える現象として捉えるのは不可能だろう。また、アリスが現在進行形で大きくなっていると同時に小さくなっているわけでもない。したがって、これはあくまで論理的なレベルでの話であって、日常的な出来事を指しているわけではない。この限りにおいて、ドゥルーズは「純粋」生成という語を用いている。
また、このことから以下のような帰結が生じてくる。つまり、出来事に関しては明確な境界線が存在しないということである。というよりもむしろ、出来事に関する境界線は否定的にしか規定できない、といった方が正しい。上で述べたように、純粋生成としての出来事は過去と未来の二方向に時間のベクトルが向けられている。そこでは空白の現在を一種の境界線として扱っていたのだが、それは言い換えれば、出来事が起こる特定の時間を指定することができない、ということになるのではないだろうか。なぜならば、今ここで問題となっている現在、すなわち境界線の役割を担っていると思われていたこの現在こそ、不在・空白だということを意味しているからである。つまり、「否定的にしか規定できない」というのは、出来事が明らかに起こっていない状態と、出来事が明らかに起こった後の状態との間における開区間・空白の現在がその境界線の役割を放棄していることを意味し、それは出来事がいつ始まり、またいつ終わったのかを厳密に指定することができないということをも暗に示している。
さらに、出来事における特定の時間を指定することができない、つまり出来事がいつ始まりいつ終わるのかという生成消滅を明確に設定できないということは、その時間の無限同一性もまた保証している、とドゥルーズは述べている。無限同一性とは、文字通り、その分離された両者が際限なく同一のものとしてみなされてしまうという事態を意味している。この場合、分離した両者とは過去と未来であり、分離されたものは現在である。出来事とは、その前の状態と後の状態に包括された区域から否定的に規定されるものであった。その前の状態と後の状態というものが過去と未来に相当する。そのため、出来事を挟んだ過去と未来というものは、ある意味で出来事(現在)を切断・分離しているということができるだろう。また、二つの方向に分け隔てられた現在には、もはや特別な性質を与えるような必要はない。なぜならば、現在はどこまでいっても無際限に過去と未来に置き換えられてしまうからである。つまり、あらゆる現在が過去と未来に際限なく分割された結果、過去と未来は限りなく接近し、ついにそれらは同一のものとしてみなされてしまうのである。
ここで、ドゥルーズがベルクソンの思想から援用した「微分化」の作用を適用させることは有効であるように思われる。上で述べたように、出来事を数学的に解釈した場合、その出来事、すなわち或る特定の区間(0よりも大きく3よりも小さい区間)というものは、あくまで任意の区間であった。もちろん、この区間を0から2の間と定めることもできれば、0から1の間と定めることもできる。つまり、どのような区間を設けたとしても、その区間は「微分化」の作用を用いることによって、無限に分割することができてしまうのである。この考えをそのまま現在に当てはめることによって、無限同一性という概念を、より明晰に理解することが可能であろう。
また、出来事を否定的にしか規定できないということから、その出来事の空白性、すなわち空白としての現在を導き出した。空白の現在とは、言い換えれば、現在が存在しないということを暗に意味している。つまり、そこで考えられる時間体系では、現在という限定づけられた時間は存在しない。あるのは、限定づけられたもののそれぞれの端における無限性である。つまり、無限に同一のものとしてみなされた過去と未来だけである。この無限に同一のものとしてみなされた過去と未来が出来事の時間体系を担っているのであれば、両者にもまた特権的な性質を与える必要はなくなるだろう。なぜならば、それは時間そのものを構成する一つの全体を示しているからである。現在や過去・未来といった時間は、時間全体を構成する諸部分に過ぎない。そのような時間体系とは、もはや部分的に分節化されたものではなく、一つの全体として考えなくてはならないものである。
したがって、純粋生成のパラドックスから導き出された無限同一性によって、現在という特権的な地位は剥奪され、あくまで過去と未来に「分け隔てられたもの」として同一のものとしてみなされてしまう。そして、そのように分け隔てられたものは、全体としての無限な時間として提示されるのである。(ドゥルーズはここでもアリスの冒険で起こる様々な例を用いることによって、無限同一性を証明しようとしている。(※8) )
ただし、これは決して出来事が通常の時間の流れを無視しているわけではない。そうではなくて、これは出来事というものが通常の時間形式からは大きく逸脱していると考えるべきだろう。ドゥルーズは、定点となる現在を欠いた出来事とは、本性上永遠の時間(※9) に属していると考える。現在という定点、さらには過去と未来の節目を失ってしまい、それらを無限同一化してしまった出来事の時間とは、もはや過去・現在・未来という通常の時間軸の連続性を見て取ることはできない。また、出来事がいつ始まりいつ終わったのかという指定ができないにもかかわらず、出来事は我々の目の前にしっかりと現れてくる。これは出来事というものが、「永遠の昔から始まり、全時間を継続し、永遠の未来に終わる」(※10) といえるのではないだろうか。なぜならば、出来事及びその時間体系である永遠の時間とは、分節・分離・切断などといった限定づけられる作用を度外視したものにほかならなかったからである。つまり、出来事というものが、厳密にいつ始まりいつ終わるという限定づけをもはや必要としないならば、出来事は一つの無限なる全体として、すなわち「永遠の昔から始まり、前時間を継続し、永遠の未来に終わる」と語られなければならないのである。
では、我々が日常で感じている時間と一切無縁かといえば、もちろんそうではない。例えば、ある物体とある物体とが衝突するという出来事を考えてみよう。両者が近付き、接触し、離れていくという過程の中で、我々はこの衝突という出来事をいつ見出すのか。確かに我々は、「近付いて衝突して離れる」と語ることはできる。その場合は近付くという出来事、衝突するという出来事、離れるという出来事に、順序を入れているだけであって、時間的に並べているのではない。我々は、二つの運動を知覚して、そこに出来事の順序を持ち込んでから、その後で初めて、出来事に特定の時間を割り当てているのである(※11) 。つまり、永遠の時間という出来事独自の時間体系から、我々がその出来事を知覚するために無理矢理、我々が普段感じている時間体系へとその出来事を抽出してくるわけである。この限りにおいて、永遠の時間に位置していた出来事が、我々の前に現出してくる、すなわち抽象的な出来事が我々の世界という具体的な事例として現実化すると考えられる。(なお、ここで述べている現実化とは厳密な意味では現実化しているわけではない。このことについては次章のベルクソンの潜在性の概念をもとに検証していく。)
ただし、ここで留意しておきたいことは、冒頭で述べたように、この永遠の時間は決して超越論的な場所に位置するものではないということである。確かに、永遠などといったある種の普遍性を認めてしまい、我々が感じている通常の時間とは独立していると説明されると、それはプラトン(前427-前347)のようなイデア的なものを連想させてしまいかねない。しかし、ここで問題となっている永遠の時間は、あくまで出来事という我々の前に現出してきた具体的なものを支えているものであって、出来事がなければ永遠の時間もまた成立しない。したがって、永遠の時間は出来事の内部に属しているということになる。プラトンは無限なものから有限なものを導き出している。これに対してドゥルーズは、有限なものから無限なものを導き出しているといえるだろう。
※6 ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』上巻、小泉義之訳、河出書房新社、2007年 p.15
尚、この場面は『不思議の国のアリス』(河合祥一郎訳、角川書店、2010年)pp.18-22を参照。アリスが “drink me” と書かれた飲み物を飲んでしまうと、彼女の体は小さくなってしまい、また困ったアリスが “eat me” と書かれたケーキを食べてしまうと、今度は彼女の体は大きくなってしまう。
※7 小泉義之『ドゥルーズの哲学―生命・自然・未来のために』講談社、2000年 p.204
※8 ドゥルーズ前掲注(6) p.18参照。
※9 ドゥルーズはこの永遠の時間をアイオーンの時間、逆に現在の時間をクロノスの時間と称している。両者ともギリシア神話に登場する神の名前であるが、とりわけ前者は永遠・永劫などを象徴する神とみなされ、後者は時間一般を象徴する神を指す。尚、詳細については、ドゥルーズ前掲注(6) pp.283-293参照。
※10 小泉前掲注(7) p.205
※11 同書 pp.204-205参照。