メモ.1
『省察』は方法的懐疑によってあらゆるものを疑いの対象にかけた末、コギトという絶対不動の立脚点を見出す。
言い換えれば、疑いという通過儀礼を経なければコギトは見出せない。
さらに、コギトという確固たるものを得ることで、「知性」(=絶対に確実な知識)の領野が開けてくる。
ところで、デカルトが方法的懐疑を使用する際、そこで懐疑にかけられる対象の中に「想像力」に関わるものが挙げられる。想像力とは感覚によって認識することを意味している。
想像力とは知性の内に入らないばかりか、知性と対をなす概念である。
では、コギトを見出す前の・すなわち知性を手に入れる前の方法的懐疑とは、一体何に依拠して進行しているのだろうか。
デカルトはその場でまだ知性を登場させていないし、想像力も明晰な指標になり得ないとして排除している。
思うに、デカルトの方法的懐疑はすべてを疑い無に帰する、というよりもむしろ、疑うことによってあらゆるものを一旦括弧の中に入れる働きである。そうでないと、外界の対象や神に辿りつくまでの経路が絶たれてしまうからである。
想像的疑いと知性的疑いという区別を設けるべきか、それとも最初から知性が働いていたのか、或いは第三の、『エリザベート書簡』や『規則論』で垣間見られるような原初的観念・自然の光等の、省察以外で言及されている概念を用いるべきなのか。
エリン ギ
iPhoneからの投稿
言い換えれば、疑いという通過儀礼を経なければコギトは見出せない。
さらに、コギトという確固たるものを得ることで、「知性」(=絶対に確実な知識)の領野が開けてくる。
ところで、デカルトが方法的懐疑を使用する際、そこで懐疑にかけられる対象の中に「想像力」に関わるものが挙げられる。想像力とは感覚によって認識することを意味している。
想像力とは知性の内に入らないばかりか、知性と対をなす概念である。
では、コギトを見出す前の・すなわち知性を手に入れる前の方法的懐疑とは、一体何に依拠して進行しているのだろうか。
デカルトはその場でまだ知性を登場させていないし、想像力も明晰な指標になり得ないとして排除している。
思うに、デカルトの方法的懐疑はすべてを疑い無に帰する、というよりもむしろ、疑うことによってあらゆるものを一旦括弧の中に入れる働きである。そうでないと、外界の対象や神に辿りつくまでの経路が絶たれてしまうからである。
想像的疑いと知性的疑いという区別を設けるべきか、それとも最初から知性が働いていたのか、或いは第三の、『エリザベート書簡』や『規則論』で垣間見られるような原初的観念・自然の光等の、省察以外で言及されている概念を用いるべきなのか。
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