~日々是ジーザス~ -26ページ目

エランの芳香

ベルクソンはダーウィンの進化論に対して否定的な見解を示している










ベルクソンの主張を大まかにまとめると、








生物の進化に方向性も糞もない



一概にみんな何か(進化するという)目的を目指して生きているわけではない



ということになる












ダーウィンの進化論はそれが「論説」ないし「論理の定式化」である以上、必然性を伴っているものである(例えば「自然淘汰」の概念など)









ところで、ベルクソンはダーウィンの進化論を否定する際に、動物と人間の進化について言及している





彼によれば、あらゆる生命は根源的に élan vital(生命の躍動・飛躍) と呼ばれるものを有していて



その原初的なエランが、たまたま偶然的に、動物は本能の方に傾き人間は知性(知能)の方に傾いたにすぎない、と進化の方向性について説明している
(「傾く」というのは僕の表現で、ベルクソン自体はエランに「火薬が着火して爆発する」という表現をしている)






ベルクソンの主張もそれが論説である以上、必然性を免れることはできないが、ダーウィンのそれとは様相を異にしている





つまり、ダーウィンが進化について「必然性」を基盤に語っているのに対して、ベルクソンは進化についてはたまたまそうなっただけだという、「偶然性」の次元で話が展開されている
















さて、このことから我々は一体何を汲み取るべきであろうか












この理論を用いて説明すべき事柄は何なのだろうか












トイレのカギを閉め忘れたのは相手に非があるのに、なぜ開けた瞬間こちらが「あ、すみません!」と謝らなければならないのか









違う










「なぜ小学生は足が速かったりドッジボールが上手かったらモテるのか」









これである






足が速かったりドッジボールが上手かったりするというのは、どちらかといえば、知能より本能的なものに属している








仮に知能≒精神、本能≒身体と結びつけることが許されるならば、それらは確実に身体の側の問題である










さて、ベルクソンのいうエランには知能にも本能にも傾倒しうる(あらゆる)潜在性を予め有していたわけだから





当然、人間も本能的な部分が完全に排除されるということはなく、人間のうちに残存しているということになる












ここからは僕の安直な推論で話がエランしてしまうが(←Fine Play!!)







おそらく小学生は年齢を重ねていないぶん、エランに目を向けやすいのではないか
















年齢を重ねるにつれて、「好きなタイプ」というのはほとんど知能の側の問題になってくる






優しかったりお金をたくさん持っていたりというのは、おそらく自分の利益を多少なりとも考慮して算出された「好きなタイプ」なのではないだろうか















足が速かったりドッジボールが上手かったりすることが自分の利益になりますか?
















小学生はまだ本能の芳香を嗅ぎわけることができる希少な生物なんだと思われます


















それは「純粋」というより「未分化」という表現が正しいように思われます
















なお、




いやいや。それはただ単にモテるというより目立つだけでしょ?ボス猿に雌ザルが群がるのと同じ原理よ




というか、その人が好きであったりその人のそばにいれるっていう社会的ステータスは考慮されないわけ?それを踏まえれば知能≒精神・本能≒身体なんて大雑把な区別なんてできないんじゃない?社会性は無視ですか?




そもそもモテるって何ですか?












といったコメント・感想等は当社ではお答えできかねます。泣いちゃうから