序論
序論
端的に、出来事とは何なのだろうか。何を以て出来事とみなすのだろうか。また、出来事に始まりや終わりはあるのだろうか。出来事とは、日本語で「出て来る(或いは、出て来た)事」という意味合いを持つが、それは一体どこから「出て来る(或いは、出て来た)」事なのだろうか…等々、漠然と出来事といってもそこには様々な疑問が生じる。これらの素朴な疑問に対して、ドゥルーズ(1925-1995)は『意味の論理学』を通じて多様なアプローチで解を与えている。
ただし、『意味の論理学』というタイトルからわかるように、この書物はあくまで「意味」について語られているということを忘れてはならない。しかしながら、本稿ではあくまで「出来事」についての考察を深めることを主眼とし、とりわけ「意味」については深く言及しない。なぜならば、フレーゲ(1848-1925)のパラドックス(※1) からもわかるように、言葉にはその語だけでは語り尽くせないという無限増殖の性質があるからだ。つまり、ある語や命題を定義しようとするならば、その定義で使用した語や命題もまた定義しなければならないし、その連鎖は無限に続くということである。
もちろん、出来事と意味との関係性を無視して出来事を語り尽くすことは、いささか困難のように思われる。しかしながら、本稿では出来事の諸々の側面を捉えることを追求するに留める。したがって、本稿に出てくる「意味」という言葉はあくまで一般的な用語として使用する。本稿の最終的な着地点は、出来事が意味と密接に関係していることの裏付けを証明することにあるからである。
また、出来事を哲学のカテゴリーとして扱った哲学者は、論者が知る限りでは非常に稀である。その点についても、出来事がどういったものかについて考察を深めていくことは、非常に意義があるように思われる。ドゥルーズは偉大な哲学者であったと同時に、偉大な哲学史家でもあった。彼の思想の根幹を支えているものは明らかに過去の偉大な哲学者たちである。それらの人物を無視してドゥルーズの思想を捉えるのは不可能だろう。したがって、ドゥルーズがそうしたように、様々な哲学者や小説家の思想などを引き合いに出すことによって、出来事について多角的な視点から論じていきたい。
とりわけ、第一章ではルイス・キャロル(1832-1898)(※2)の小説を具体例として、そこに含まれる純粋生成のパラドックスと、さらにそこから導き出される出来事の時間概念を論じる。その後、詩人であるジョー・ブスケ (1897-1950)(※3)の言葉をもとに、その時間概念をさらに検討していく。次に、第二章ではライプニッツ(1646-1716)(※4)の(共立)可能性とベルクソン(1859-1941)の潜在性の概念の相違点、及びそれらと照らし合わせた出来事の様相を検討することを主眼とする。さらに、第三章では初期ストア哲学(※5) の非物体的なものと出来事との関係性を把握することで、出来事と動詞との関係を文法的な解釈から論じる。最後に結論では、各章で検討してきた出来事の多様な様相を総括し、そのような出来事に対してどのような態度で臨むべきかを論じる。
※1 フレーゲのパラドックスについては以下を参照。G・フレーゲ「意義と意味について」・『フレーゲ著作集4』土屋俊訳、勁草書房、1999年
※2 ドゥルーズは『意味の論理学』で主に、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』、『シルヴィーとブルーノ』などの作品におけるナンセンスな語・パラドックスを参考にしている。
※3 第一次世界大戦で負った傷により、半身不随となった詩人。
※4 ドゥルーズはライプニッツを主題とした『襞』以外でも、『意味の論理学』・『差異と反復』・『シネマ』等、様々な著作の中でライプニッツを参照としている。
※5 初期ストア哲学についての定義は、大まかに、創始者であるゼノン(前335-前263)からストア哲学の学説を体系化したとされているクリシュポス(前280頃-前207)などを代表とした時代(前3世紀頃)を指す。
端的に、出来事とは何なのだろうか。何を以て出来事とみなすのだろうか。また、出来事に始まりや終わりはあるのだろうか。出来事とは、日本語で「出て来る(或いは、出て来た)事」という意味合いを持つが、それは一体どこから「出て来る(或いは、出て来た)」事なのだろうか…等々、漠然と出来事といってもそこには様々な疑問が生じる。これらの素朴な疑問に対して、ドゥルーズ(1925-1995)は『意味の論理学』を通じて多様なアプローチで解を与えている。
ただし、『意味の論理学』というタイトルからわかるように、この書物はあくまで「意味」について語られているということを忘れてはならない。しかしながら、本稿ではあくまで「出来事」についての考察を深めることを主眼とし、とりわけ「意味」については深く言及しない。なぜならば、フレーゲ(1848-1925)のパラドックス(※1) からもわかるように、言葉にはその語だけでは語り尽くせないという無限増殖の性質があるからだ。つまり、ある語や命題を定義しようとするならば、その定義で使用した語や命題もまた定義しなければならないし、その連鎖は無限に続くということである。
もちろん、出来事と意味との関係性を無視して出来事を語り尽くすことは、いささか困難のように思われる。しかしながら、本稿では出来事の諸々の側面を捉えることを追求するに留める。したがって、本稿に出てくる「意味」という言葉はあくまで一般的な用語として使用する。本稿の最終的な着地点は、出来事が意味と密接に関係していることの裏付けを証明することにあるからである。
また、出来事を哲学のカテゴリーとして扱った哲学者は、論者が知る限りでは非常に稀である。その点についても、出来事がどういったものかについて考察を深めていくことは、非常に意義があるように思われる。ドゥルーズは偉大な哲学者であったと同時に、偉大な哲学史家でもあった。彼の思想の根幹を支えているものは明らかに過去の偉大な哲学者たちである。それらの人物を無視してドゥルーズの思想を捉えるのは不可能だろう。したがって、ドゥルーズがそうしたように、様々な哲学者や小説家の思想などを引き合いに出すことによって、出来事について多角的な視点から論じていきたい。
とりわけ、第一章ではルイス・キャロル(1832-1898)(※2)の小説を具体例として、そこに含まれる純粋生成のパラドックスと、さらにそこから導き出される出来事の時間概念を論じる。その後、詩人であるジョー・ブスケ (1897-1950)(※3)の言葉をもとに、その時間概念をさらに検討していく。次に、第二章ではライプニッツ(1646-1716)(※4)の(共立)可能性とベルクソン(1859-1941)の潜在性の概念の相違点、及びそれらと照らし合わせた出来事の様相を検討することを主眼とする。さらに、第三章では初期ストア哲学(※5) の非物体的なものと出来事との関係性を把握することで、出来事と動詞との関係を文法的な解釈から論じる。最後に結論では、各章で検討してきた出来事の多様な様相を総括し、そのような出来事に対してどのような態度で臨むべきかを論じる。
※1 フレーゲのパラドックスについては以下を参照。G・フレーゲ「意義と意味について」・『フレーゲ著作集4』土屋俊訳、勁草書房、1999年
※2 ドゥルーズは『意味の論理学』で主に、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』、『シルヴィーとブルーノ』などの作品におけるナンセンスな語・パラドックスを参考にしている。
※3 第一次世界大戦で負った傷により、半身不随となった詩人。
※4 ドゥルーズはライプニッツを主題とした『襞』以外でも、『意味の論理学』・『差異と反復』・『シネマ』等、様々な著作の中でライプニッツを参照としている。
※5 初期ストア哲学についての定義は、大まかに、創始者であるゼノン(前335-前263)からストア哲学の学説を体系化したとされているクリシュポス(前280頃-前207)などを代表とした時代(前3世紀頃)を指す。