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第二章第一節

第二章:出来事の可能性と潜在性


第一節:ライプニッツの共立可能性

 まず、出来事の可能性に焦点を当てる。前章で述べたように、確かに現在とは空白としての現在、或いは絶え間ない更新だけがあるような時間体系の中における現在という性質を持つ。しかし一方で、「現在とは、時間が流れ、世界が成立していく中で、いったんその流れを停止し、生成に<かたち>を付していく断面=瞬間」(※15) という性質があることも否定できないだろう。何か出来事が起こることで世界の断面が生じるのはもちろん、たとえ出来事が起こらなかったとしても断面は生じる。(逆説的ではあるが、「出来事が起こらなかった」という出来事は起こっているからである。)そして、両者は絶対に両立し得ない。なぜならば、それは純粋生成のパラドックスで見たように、現在における存在形式は一つに縛られることが前提となっており、出来事は起こるか起こらないかの二者択一という範疇を超えることはないからである。つまり、現在という視点に立った時、我々には或る出来事が起こるか起こらないかのどちらかだけということになる。これは果たして、その出来事が起こる「可能性」があったのか、或いは起こらない「可能性」があったのかという可能性のレベルの話なのだろうか。
 このような問題に対するアプローチの一つとして、ライプニッツは「共立可能性」という概念を用いることによって解を導き出す。共立可能性とは、端的に言ってしまえば、出来事が起こる可能性、さらにはその出来事すべてを包括する世界の「可能世界」を認めてしまう、ということである。つまり、この現実世界の今ある在り方は、決して唯一の世界ではなく、それとはまた別の可能世界があり、そのような世界は無数に想定できてしまう。例えば、或る出来事が起こったとする。その出来事はもしかしたら起こらなかったということも充分にあり得る。しかし、或る出来事が起こることと起こらないことは、一つだけの世界の中では決して両立(共立)することはない。仮にその出来事が起こった世界を現実世界と定めれば、その出来事が起こらなかった別の世界(=可能世界)が存在し、その別の世界が現実世界であっても全く問題はない、ということである。したがって、この世界の現実とは想定し得る様々な世界の多元性の中で、ある一つの世界が選びとられたものとなる。このような無限の世界が共立し合い、一つの世界へと収斂していくことを、ライプニッツは共立可能性と呼んでいる(※16) 。
つまり、ライプニッツの共立可能性の概念は、矛盾性の排除から成り立っている。確かに、或る出来事に対して無際限に可能性の有無を確認できてしまうこと、その出来事が起こることと起こらないことが同時に想定できてしまうことは決して矛盾ではない。しかし、ライプニッツにとって、その出来事が同時に同じ世界で起こってしまうような事態は矛盾としてみなされ、それを認めないという考え方である。
 これは、ライプニッツが出来事をあくまで可能性の次元に即して捉えていたという証拠だろう。ドゥルーズはライプニッツのこのような考えに対して否定的な態度を示す。なぜならば、純粋生成のパラドックスで述べたように、出来事とは、その本性上、最初から矛盾を孕んだ概念にほかならないからである。それは、大きくなるという出来事と小さくなるという出来事が、同時に一挙に起こるという矛盾であった。ライプニッツの可能世界論ではこのような矛盾はあってはならない。それゆえ新たに別の世界を作り出す必要があったのである。
ここで、可能性という概念についてより明確にしておく必要がある。可能性とは、何か出来事が起こる(或いは、起こらない)という設計図のようなものがあらかじめ設定されていて、その設計図のようなものに依拠して出来事が展開されていくプロセスである。つまり、「一つの可能性が実現することは、先行的に存在する何かを効果(結果)的に存在へともたらすこと」(※17) であり、その実現の過程で他の可能性を排除していく。そこでは、いくら複数の可能性が考慮されているとしても、前もって決められた線をなぞるようにして出来事が進んでいくという点で、その出来事はある意味ですでに現実化してしまっている。それは言い換えるならば、このようにすでに現実的に描かれてしまったものとは、実際には生成の現場をあとから振り返って、はじめて取り出されるもの、つまり現実が流れ去った後に、それを回顧することによってしか見出され得ないものである。(※18)
確かに、「現在=流れを停止する世界の断面」という性質だけを取り出した場合、そこに矛盾は生じないだろう。しかしながら、そのような現在の性質だけで出来事を捉えることはもはやできない。出来事及び空白の現在から二方向に分裂した時間は、それが必ず二つの方向性を孕んでいるという点で明らかに矛盾している。さらに言えば、二つの方向に引き裂かれた時間は、無限同一性により、もはや過去や未来といった分節化をも必要としない全体性そのものであった。この限りにおいて、出来事は永遠の時間に位置するとドゥルーズは述べたのだが、そこから導かれる世界像とは、ライプニッツが述べたような一つの世界へと収斂していくような世界ではない。そうではなくて、収斂とは正反対の発散していくような世界のことを指す。それは共立し得ないものを、噛み合わないままに結びつけるものであり、むしろ共立不可能性によって特徴づけられるような、パラドックスとしてしか描けない出来事や世界の在り方である。(※19)
また、ライプニッツの可能世界論は共立不可能なものがそれらを取り巻く同じ世界に属し、さらにその共立不可能な諸々の世界がそれらを取り巻く同じ宇宙に属するという、可能世界を見通す超越論的な視座に基づいている。この点についても、ドゥルーズとライプニッツは大きく立場が異なっている。前に述べたように、ドゥルーズはあくまで超越論的な視座を設定しない内在的な発生論の立場から出来事を捉えていたからである。つまり、ドゥルーズは出来事の矛盾性を肯定的に、その調和的に収束する方向性を欠いたありのままの力をそのまま捉えようとする。出来事とは、むしろ発散していく共立不可能性によってしか示すことができないものである。
 したがって、出来事は可能性に準拠しているわけではない。出来事とは、「起こるべくして起こる」という想定され得る先行的なものを視野に入れることができない未決定なものである。では、その未決定性、様々な矛盾した方向性を孕みながら「出来事」という一つのかたちへと決定づけているものは何なのか。






※15 檜垣立哉『ドゥルーズ―解けない問いを生きる』NHK出版、2002年 p.38
※16 同書 pp.68-69 参照。なお、ライプニッツにとってこの世界が選びとられた理由の一つとして、最善(多元性の中で最も価値的な評価の高いものを選択する)という概念が導入されるが、ここでは論点が不明瞭になってしまうため、とりわけ言及しない。
※17 ホルワード前掲注(13) pp.86-87
※18 檜垣立哉『ドゥルーズ入門』筑摩書房 2009年 pp.46-47参照。
※19 檜垣前掲注(15) p.70及びp.112 参照。