第三章第二節
第二節:動詞の不定法と表現可能なもの
ところで、前節で取り上げた「切る」という属性の検討から、あらゆる非物体的な出来事はすべて述語的なもの、すなわち動詞に集約されるとストア派はいう。確かに、ナイフや肉といった語は名詞である。また「黒い」とか「美しい」などといった言葉は形容詞であるが、それは属性ではなく存在の本性に対する原因になり得るので、特質(物体)とみなさなれる。
フランス語では、「ナイフは肉を切る。」は、Le couteau tranche la chair. と表記される。また、「あなたは肉を切る。」は Vous tranchez la chair. と表記される。この二つの命題の違いは一体何か。まず、肉(la chair)という語にはどちらでも変化はみられない。次に、第一の命題でナイフ(le couteau)だった主語が、第二の命題では、あなた(vous)という主語に変わっているということが確認できる。しかし、ナイフという物であろうと人であろうと、ストア派においてそれらはすべて物体としてみなされる(肉を切る原因になっている)ので、そこに大差はない。
ここで問題となるのは、動詞なのである。日本語の文法の感覚では分かりづらいが、フランス語は主語に応じて動詞が人称変化するという法則がある。つまり、不定形である<trancher> が三人称単数の主語 le couteau と結びつくと、その姿が tranche に変わり、二人称単数の主語 vous と結びつくと、その姿が tranchez に変わる。
これは動詞、つまり出来事の非人称性を裏付けるものである。なぜならば、そのもともとのかたちである動詞の不定形は、仮に主語という物体に属することがなければ、永遠にのままだからである。le couteauやvous と出会うことによってはじめて、はその永遠の時間から引き抜かれ、tranche や tranchez などのようにかたちを変えていく。かたちを変える瞬間こそが、まさしくその動詞が現実化する瞬間なのである。したがって、非物体的な出来事は、その本来の姿である動詞の不定法によって表わされる。それはたとえ主語を伴っていなくても、属性或いは出来事としてあり続ける。
しかしながら、これはあくまでフランス語といった、人称変化を前提とする言語の視点に立った場合にのみ生じるものである。当然のことながら、日本語のような言語には人称変化という文法規則は存在しない。したがって、これはあくまで出来事を捉える一つの側面であることに注意しなければならない。確かに、出来事そのものに関しては、両者とも同じものを共有することができるかもしれない。しかし、文法体系が違えば当然その出来事の捉え方も違ってくる。ストア派やフランス語を使用して出来事を捉える人々は、その文法規則という観点から出来事を考察することができる。これに対し、日本人は、そのような観点やアプローチが存在しないため、そこから出来事を考察することができないだけである。したがって、人称変化を前提としない言語を使用する我々には、この動詞の不定法という概念は極めて説明しづらい(間接的にしか把握できない)ものなのである。
もちろん、この概念は第一章一節で取り上げた<être>にも適用することができる。ここで述べられている<être>は名詞の「存在」ではなく、動詞の「存在する」の方である。つまり、名詞の「存在」の方は物体に属するが、動詞の「存在する」は非物体的なものに属する。確かに、出来事とはあくまで生成(devenir)の側に位置するものであり、存在(être)の側には位置しなかった。しかし、<être>も他の動詞と同様にその主語の人称に合わせて変化する。したがって、<être>も非人称的な永遠の時間に流れているということになる。「存在」という名詞的な<être>は物体であるが、「存在する」という動詞的な<être>は非物体的なもの、つまり一つの出来事として捉えられる。
以上をまとめると、まずストア派にとって出来事とは非物体的なものであった。そして、非物体的なものは物体から生み出された一つの結果(効果)であり、属性であった。さらに、その属性というものは常に動詞によって表現され、物体を固体化させるものであった。では、動詞とは一体何か。それはストア派的にいえば「表現可能なもの」である。
まず、ストア派は「表現可能なもの」をやはり物体間における媒介項のようなものとしてみなす。例えば、ここに日本人と(日本語が全くわからない)外国人がいると仮定する。その両者が日本語の言葉を耳にする。前者はその言葉を理解し、当然のことながら、後者はその言葉を理解できない。
ところで、言葉を理解するというのは、大きく分けて三つの段階があると考えられる。それはまず、その言葉の音を理解する段階である。次に、その言葉が指示するものを自分の思考の中から概念のようなものとして導き出す段階である。そして最後に、これらを結びつける段階である。この三つの段階を経て初めてその言葉を理解したといえるだろう。では、後者の場合はどうか。まず、後者はその言葉の音を耳にすることはできても、理解することはできない。このため、発せられた言葉の音とその自らの思考の内にある概念(思考されている内容)を抽出してくることもできないし、また最終的にそれらを照らし合わせることもできない。しかし、両者の区別は第一段階であるその言葉の音が担っているわけではない。なぜなら、その音それ自体は両者にとって同じものだからである。そうではなくて、両者の決定的な差異は、その言葉の音と自らの持っている概念とを結び付けられなかったということ、すなわちその言葉によって「意味されるもの」という属性を前者は有していたが後者は有していなかったということである。
ストア派は総じてこの「意味されるもの」のことを「表現可能なもの」(※35)と呼んでいる。 つまり、前者はその言葉に対して「意味(されるもの)」を付け加えることができたが、後者はそれを付け加えることができなかったのである。
ストア派にとって、音と思考は物体としてみなされていた。なぜならば、音とはその受信側である存在者の本性を変えることができるものであり、思考もまた、他の原因となり得るようなものであったからだ。ナイフという音は、ただの金属だったものがナイフであるよう仕向ける。したがって、ナイフという音はナイフの存在それ自体に影響を及ぼすので物体としてみなされる。思考もまた、自らの思考の中から概念を創出する。このことは、思考と概念における、能動受動の因果関係を担っているものであり、したがって思考も物体としてみなされる。しかし、『「意味される」という事実は、いかなる点においても物体を変化させることのない、非物体的な属性としてその物体に付け加えなければならない』(※36) ので、「意味されるもの」、すなわち「表現可能なもの」は非物体的なものとしてみなされる。
そして、ストア派は表現可能なものを動詞、つまり属性という非物体的なものというカテゴリーに入れる。これは言い換えると、動詞(広義では述語)がその文章の意味を担っているということである。或る命題を例にとって考えてみる。例えば、「樹木は緑である」(L’arbre est vert.)という命題と「樹木は緑になる」(L’arbre verdoie.)という二つの命題を比較した場合、両者の違いはやはり動詞の位置づけにある。前者の場合、動詞に相当する語は est (不定形:être)であり、そのあとに続く語は形容詞の vert である。それに対して後者は verdoie (不定形:verdoyer)という動詞だけである。
ところで、ストア派は前者のような命題を認めない。なぜならば、前者のような命題には表現可能なもの、すなわち動詞の本質がみられないからだという。前者の動詞 est は「存在する、~である」という意味から、存在を表すものとしてみなされる。存在は生成と大きく区別されるものであった。さらに、est という動詞は、ここではあくまで後に続く vert を誘引するものとして位置づけられている。つまり、est という動詞は、その主語である「樹木」(l’arbre)の特質を指示しているに過ぎない。また、vert は形容詞であり、それはストア派にとって特質としてみなされていた。したがって、この命題からは生成或いは出来事というものを見て取ることができないため、命題として認めることができないのである。確かに、前者のような命題は数多く存在する。しかし、ストア派にとって、このような命題はすべて後者のような命題に変換されなければならないのである。
後者の場合、verdoie (不定形:verdoyer)が「緑になる、緑化する」といった意味を担っており、これは出来事として成立している。つまり、verdoie (不定形:verdoyer) に概念というものは存在しない。「樹木」 (l’arbre) という名詞や「緑の」(vert) といった概念は存在するだろうが、verdoie (不定形:verdoyer) はもはや概念としてではなく、その事実や出来事の表現を可能にするものとして現われている。
しかし、ここで注意すべき点が一つある。それは存在を表す動詞<être>の位置づけが非常に曖昧だということである。前節では、動詞の不定法という視点から<être>もその例外ではないことを示した。<être>という動詞もまたその主語に合わせてかたちを変えるという点から、非人称的或いは前個体的な次元に位置していた。しかし、ストア派は、「存在する、~である」という意味を担う<être>は命題の次元では、出来事として成立しないという判断を下している。
ドゥルーズはこの点について深く言及していないが、これは一体どのように解釈すべきなのか。ここで、<être>に特権的な地位を与える必要はない。なぜならば、<être>には「~になる」という生成変化を表す意味もあるからである。「私は俳優になりたい」( Je veux être acteur. )という命題を考えてみれば明らかである。確かに、一つの解釈として、この<être>を「存在する、~である」といった存在の側の意味でとることはできるかもしれない。つまり、Je veux être acteur. という命題を「私は俳優になりたい」ではなく、「私は俳優であること(俳優として存在すること)を望む」という意味で捉える方法である。しかし、俳優である(俳優として存在する)ためには、まず以て俳優になるという生成が生じなければならない。したがって、ここでの<être>は必然的に生成、すなわち一つの出来事として捉えなければならないのである。このことから、ストア派が否定したのは、「樹木は緑である」(L’arbre est vert.)という表現の仕方や、一義的にみた場合の意味であって、<être>そのものではない。
※35 ジャン・ブラン『ストア哲学』有田潤訳、白水社、1959年 p.51 参考。
※36ブレイエ前掲注(28) p.30
ところで、前節で取り上げた「切る」という属性の検討から、あらゆる非物体的な出来事はすべて述語的なもの、すなわち動詞に集約されるとストア派はいう。確かに、ナイフや肉といった語は名詞である。また「黒い」とか「美しい」などといった言葉は形容詞であるが、それは属性ではなく存在の本性に対する原因になり得るので、特質(物体)とみなさなれる。
フランス語では、「ナイフは肉を切る。」は、Le couteau tranche la chair. と表記される。また、「あなたは肉を切る。」は Vous tranchez la chair. と表記される。この二つの命題の違いは一体何か。まず、肉(la chair)という語にはどちらでも変化はみられない。次に、第一の命題でナイフ(le couteau)だった主語が、第二の命題では、あなた(vous)という主語に変わっているということが確認できる。しかし、ナイフという物であろうと人であろうと、ストア派においてそれらはすべて物体としてみなされる(肉を切る原因になっている)ので、そこに大差はない。
ここで問題となるのは、動詞なのである。日本語の文法の感覚では分かりづらいが、フランス語は主語に応じて動詞が人称変化するという法則がある。つまり、不定形である<trancher> が三人称単数の主語 le couteau と結びつくと、その姿が tranche に変わり、二人称単数の主語 vous と結びつくと、その姿が tranchez に変わる。
これは動詞、つまり出来事の非人称性を裏付けるものである。なぜならば、そのもともとのかたちである動詞の不定形
しかしながら、これはあくまでフランス語といった、人称変化を前提とする言語の視点に立った場合にのみ生じるものである。当然のことながら、日本語のような言語には人称変化という文法規則は存在しない。したがって、これはあくまで出来事を捉える一つの側面であることに注意しなければならない。確かに、出来事そのものに関しては、両者とも同じものを共有することができるかもしれない。しかし、文法体系が違えば当然その出来事の捉え方も違ってくる。ストア派やフランス語を使用して出来事を捉える人々は、その文法規則という観点から出来事を考察することができる。これに対し、日本人は、そのような観点やアプローチが存在しないため、そこから出来事を考察することができないだけである。したがって、人称変化を前提としない言語を使用する我々には、この動詞の不定法という概念は極めて説明しづらい(間接的にしか把握できない)ものなのである。
もちろん、この概念は第一章一節で取り上げた<être>にも適用することができる。ここで述べられている<être>は名詞の「存在」ではなく、動詞の「存在する」の方である。つまり、名詞の「存在」の方は物体に属するが、動詞の「存在する」は非物体的なものに属する。確かに、出来事とはあくまで生成(devenir)の側に位置するものであり、存在(être)の側には位置しなかった。しかし、<être>も他の動詞と同様にその主語の人称に合わせて変化する。したがって、<être>も非人称的な永遠の時間に流れているということになる。「存在」という名詞的な<être>は物体であるが、「存在する」という動詞的な<être>は非物体的なもの、つまり一つの出来事として捉えられる。
以上をまとめると、まずストア派にとって出来事とは非物体的なものであった。そして、非物体的なものは物体から生み出された一つの結果(効果)であり、属性であった。さらに、その属性というものは常に動詞によって表現され、物体を固体化させるものであった。では、動詞とは一体何か。それはストア派的にいえば「表現可能なもの」である。
まず、ストア派は「表現可能なもの」をやはり物体間における媒介項のようなものとしてみなす。例えば、ここに日本人と(日本語が全くわからない)外国人がいると仮定する。その両者が日本語の言葉を耳にする。前者はその言葉を理解し、当然のことながら、後者はその言葉を理解できない。
ところで、言葉を理解するというのは、大きく分けて三つの段階があると考えられる。それはまず、その言葉の音を理解する段階である。次に、その言葉が指示するものを自分の思考の中から概念のようなものとして導き出す段階である。そして最後に、これらを結びつける段階である。この三つの段階を経て初めてその言葉を理解したといえるだろう。では、後者の場合はどうか。まず、後者はその言葉の音を耳にすることはできても、理解することはできない。このため、発せられた言葉の音とその自らの思考の内にある概念(思考されている内容)を抽出してくることもできないし、また最終的にそれらを照らし合わせることもできない。しかし、両者の区別は第一段階であるその言葉の音が担っているわけではない。なぜなら、その音それ自体は両者にとって同じものだからである。そうではなくて、両者の決定的な差異は、その言葉の音と自らの持っている概念とを結び付けられなかったということ、すなわちその言葉によって「意味されるもの」という属性を前者は有していたが後者は有していなかったということである。
ストア派は総じてこの「意味されるもの」のことを「表現可能なもの」(※35)と呼んでいる。 つまり、前者はその言葉に対して「意味(されるもの)」を付け加えることができたが、後者はそれを付け加えることができなかったのである。
ストア派にとって、音と思考は物体としてみなされていた。なぜならば、音とはその受信側である存在者の本性を変えることができるものであり、思考もまた、他の原因となり得るようなものであったからだ。ナイフという音は、ただの金属だったものがナイフであるよう仕向ける。したがって、ナイフという音はナイフの存在それ自体に影響を及ぼすので物体としてみなされる。思考もまた、自らの思考の中から概念を創出する。このことは、思考と概念における、能動受動の因果関係を担っているものであり、したがって思考も物体としてみなされる。しかし、『「意味される」という事実は、いかなる点においても物体を変化させることのない、非物体的な属性としてその物体に付け加えなければならない』(※36) ので、「意味されるもの」、すなわち「表現可能なもの」は非物体的なものとしてみなされる。
そして、ストア派は表現可能なものを動詞、つまり属性という非物体的なものというカテゴリーに入れる。これは言い換えると、動詞(広義では述語)がその文章の意味を担っているということである。或る命題を例にとって考えてみる。例えば、「樹木は緑である」(L’arbre est vert.)という命題と「樹木は緑になる」(L’arbre verdoie.)という二つの命題を比較した場合、両者の違いはやはり動詞の位置づけにある。前者の場合、動詞に相当する語は est (不定形:être)であり、そのあとに続く語は形容詞の vert である。それに対して後者は verdoie (不定形:verdoyer)という動詞だけである。
ところで、ストア派は前者のような命題を認めない。なぜならば、前者のような命題には表現可能なもの、すなわち動詞の本質がみられないからだという。前者の動詞 est は「存在する、~である」という意味から、存在を表すものとしてみなされる。存在は生成と大きく区別されるものであった。さらに、est という動詞は、ここではあくまで後に続く vert を誘引するものとして位置づけられている。つまり、est という動詞は、その主語である「樹木」(l’arbre)の特質を指示しているに過ぎない。また、vert は形容詞であり、それはストア派にとって特質としてみなされていた。したがって、この命題からは生成或いは出来事というものを見て取ることができないため、命題として認めることができないのである。確かに、前者のような命題は数多く存在する。しかし、ストア派にとって、このような命題はすべて後者のような命題に変換されなければならないのである。
後者の場合、verdoie (不定形:verdoyer)が「緑になる、緑化する」といった意味を担っており、これは出来事として成立している。つまり、verdoie (不定形:verdoyer) に概念というものは存在しない。「樹木」 (l’arbre) という名詞や「緑の」(vert) といった概念は存在するだろうが、verdoie (不定形:verdoyer) はもはや概念としてではなく、その事実や出来事の表現を可能にするものとして現われている。
しかし、ここで注意すべき点が一つある。それは存在を表す動詞<être>の位置づけが非常に曖昧だということである。前節では、動詞の不定法という視点から<être>もその例外ではないことを示した。<être>という動詞もまたその主語に合わせてかたちを変えるという点から、非人称的或いは前個体的な次元に位置していた。しかし、ストア派は、「存在する、~である」という意味を担う<être>は命題の次元では、出来事として成立しないという判断を下している。
ドゥルーズはこの点について深く言及していないが、これは一体どのように解釈すべきなのか。ここで、<être>に特権的な地位を与える必要はない。なぜならば、<être>には「~になる」という生成変化を表す意味もあるからである。「私は俳優になりたい」( Je veux être acteur. )という命題を考えてみれば明らかである。確かに、一つの解釈として、この<être>を「存在する、~である」といった存在の側の意味でとることはできるかもしれない。つまり、Je veux être acteur. という命題を「私は俳優になりたい」ではなく、「私は俳優であること(俳優として存在すること)を望む」という意味で捉える方法である。しかし、俳優である(俳優として存在する)ためには、まず以て俳優になるという生成が生じなければならない。したがって、ここでの<être>は必然的に生成、すなわち一つの出来事として捉えなければならないのである。このことから、ストア派が否定したのは、「樹木は緑である」(L’arbre est vert.)という表現の仕方や、一義的にみた場合の意味であって、<être>そのものではない。
※35 ジャン・ブラン『ストア哲学』有田潤訳、白水社、1959年 p.51 参考。
※36ブレイエ前掲注(28) p.30