結論
これまでドゥルーズの解釈を中心に、出来事の様々な側面を考察することで、出来事がどのようなものなのか、出来事という概念はどのようなものに支えられているのかを検討してきた。端的に出来事といっても、それは多様な側面から構成されており、その概念を一挙に把握することは非常に困難なもののように思われる。ここでは、結論としてこれまでに検討してきた出来事の全体像を総括し、最後にその出来事に対してどのような態度で臨むべきかを論じる。
まず、出来事とは存在ではなく、純粋な生成からなることをアリスのパラドックスをもとに導き出した。それは同時に二つの方向性を孕んでいる矛盾したものに他ならなかった。しかし、その矛盾をそのまま肯定することで、出来事が永遠の時間に位置するものだということを導き出した。出来事の時間、すなわち永遠の時間とは我々が通常感じている普通の時間とは大きく異なるものであった。ブスケの受肉の例をヒントに、その大きく異なる、永遠の時間と現在の時間とが交わりあう仕組みを検討した。
また、出来事とはライプニッツが述べるような(共立)可能性の次元に位置するものではなく、その(共立)可能性が同時に成り立つようなもの、さらにはその(共立)可能性さえも創造していくような潜在性の次元に位置するものであった。これはドゥルーズがベルクソンから受け継いだ「流れ」そのものの概念に由来している。
さらに、我々は初期ストア哲学の思想を用いることによって、出来事に対して別の角度から考察を加えた。ストア派は出来事を様々な語と同義として扱うことによって、出来事の多様な側面を見出した。それらは、非物体的なもの(物体と非物体的な結果との混合状態)であったり、属性であったり、動詞の不定形であったり、表現可能なものであったりと、そのアプローチは多岐にわたるものであった。
或る出来事が現実化し得るその過程をもう一度捉え直してみる。それは、永遠の時間を流れている出来事を我々の時間に無理やり抽出してくる時である。ブスケ的にいえば出来事を受肉する時である。ベルクソンの潜在性の観点からいえば、潜在的な出来事の一部が露呈した時である。またストア派的にいえば、非物体的なものが物体の属性として付着しそれらが混合する時でもある。しかし、そのような具体的な出来事の背後には、普遍的・非人称的・前個体的などというような、ある種の深みを想定する必要があった。しかし、その出来事が現実化する際には、一般的でも特殊的なものでもない特異なものとして現出するという仕組みがあった。このことから、一体何が言えるのであろうか。
一つは、その今まさに現実化している出来事だけに焦点を当てるということである。もちろん、現実化されているといっても、それはすべてが現実化されているわけではなかった。あくまで現実化しているのは、あらゆる方向性、つまり矛盾した方向性をも孕んだ潜在的な出来事の一部でしかない。しかしながら、もはや上で述べたような深みを与える必要はない。なぜならば、潜在的な出来事とは、分節化を施すことができないような一つの全体として提示されるものだからである。つまり、今現実に起こっている出来事がすべての方向性を包括しているというのであるならば、その深みは裏づけとしてあるのではなく、そのまま現実の姿として描かれなければならない。分節化が不可能なものが、現実化したその瞬間から、そのどれもが異なる特異なものとして細分化される。それは深さという縦の視線ではなく、差異という横の視線で捉えなければならない。
そして、もう一つは、そのような流れのままに捉えなければならない出来事に対して、悲観してはならないということである。出来事を流れのままに捉えようとするならば、自らもその流れに入り込み、その動きの中で出来事を捉えなければならない。なぜならば、もし定点となるような視点、例えば「私」というような不動の存在を設定してしまったら、それは流れを一旦止めてしまい、分節化を施すことになってしまうからである。
確かに、このような問題を解決することは容易ではない。しかしながら、その問題を解決することが容易ではないということを「知っている」という事実は確かに存在する。出来事は永遠の時間に位置し、それは決して目に見えるものではない。しかし、こうした自分の経験から導き出すことができない(具体的なものではない)ものを、「知っている」という事実は確かに存在する。また、出来事は潜在的な観点から眺めた場合、その本性上何も欠けることのない、すべてを包括するような全体性である。そのような全体性は、現実化し得る際には、あくまで一部としてしか現れないので、決してすべてを把握するには至らない。しかし、その把握するに至らないということを事実上確かに「知っている」のである。この「知っている」という態度、すなわち自分の具体的経験からは決して導き出すことができないものを肯定的に捉える態度こそ、出来事を出来事そのものとして捉える態度であるべきではないだろうか。なぜならば、今まで見てきたように、出来事とは、最初から矛盾を孕んでいるが故に、解決することができない問いのようなものだからである。
以上
まず、出来事とは存在ではなく、純粋な生成からなることをアリスのパラドックスをもとに導き出した。それは同時に二つの方向性を孕んでいる矛盾したものに他ならなかった。しかし、その矛盾をそのまま肯定することで、出来事が永遠の時間に位置するものだということを導き出した。出来事の時間、すなわち永遠の時間とは我々が通常感じている普通の時間とは大きく異なるものであった。ブスケの受肉の例をヒントに、その大きく異なる、永遠の時間と現在の時間とが交わりあう仕組みを検討した。
また、出来事とはライプニッツが述べるような(共立)可能性の次元に位置するものではなく、その(共立)可能性が同時に成り立つようなもの、さらにはその(共立)可能性さえも創造していくような潜在性の次元に位置するものであった。これはドゥルーズがベルクソンから受け継いだ「流れ」そのものの概念に由来している。
さらに、我々は初期ストア哲学の思想を用いることによって、出来事に対して別の角度から考察を加えた。ストア派は出来事を様々な語と同義として扱うことによって、出来事の多様な側面を見出した。それらは、非物体的なもの(物体と非物体的な結果との混合状態)であったり、属性であったり、動詞の不定形であったり、表現可能なものであったりと、そのアプローチは多岐にわたるものであった。
或る出来事が現実化し得るその過程をもう一度捉え直してみる。それは、永遠の時間を流れている出来事を我々の時間に無理やり抽出してくる時である。ブスケ的にいえば出来事を受肉する時である。ベルクソンの潜在性の観点からいえば、潜在的な出来事の一部が露呈した時である。またストア派的にいえば、非物体的なものが物体の属性として付着しそれらが混合する時でもある。しかし、そのような具体的な出来事の背後には、普遍的・非人称的・前個体的などというような、ある種の深みを想定する必要があった。しかし、その出来事が現実化する際には、一般的でも特殊的なものでもない特異なものとして現出するという仕組みがあった。このことから、一体何が言えるのであろうか。
一つは、その今まさに現実化している出来事だけに焦点を当てるということである。もちろん、現実化されているといっても、それはすべてが現実化されているわけではなかった。あくまで現実化しているのは、あらゆる方向性、つまり矛盾した方向性をも孕んだ潜在的な出来事の一部でしかない。しかしながら、もはや上で述べたような深みを与える必要はない。なぜならば、潜在的な出来事とは、分節化を施すことができないような一つの全体として提示されるものだからである。つまり、今現実に起こっている出来事がすべての方向性を包括しているというのであるならば、その深みは裏づけとしてあるのではなく、そのまま現実の姿として描かれなければならない。分節化が不可能なものが、現実化したその瞬間から、そのどれもが異なる特異なものとして細分化される。それは深さという縦の視線ではなく、差異という横の視線で捉えなければならない。
そして、もう一つは、そのような流れのままに捉えなければならない出来事に対して、悲観してはならないということである。出来事を流れのままに捉えようとするならば、自らもその流れに入り込み、その動きの中で出来事を捉えなければならない。なぜならば、もし定点となるような視点、例えば「私」というような不動の存在を設定してしまったら、それは流れを一旦止めてしまい、分節化を施すことになってしまうからである。
確かに、このような問題を解決することは容易ではない。しかしながら、その問題を解決することが容易ではないということを「知っている」という事実は確かに存在する。出来事は永遠の時間に位置し、それは決して目に見えるものではない。しかし、こうした自分の経験から導き出すことができない(具体的なものではない)ものを、「知っている」という事実は確かに存在する。また、出来事は潜在的な観点から眺めた場合、その本性上何も欠けることのない、すべてを包括するような全体性である。そのような全体性は、現実化し得る際には、あくまで一部としてしか現れないので、決してすべてを把握するには至らない。しかし、その把握するに至らないということを事実上確かに「知っている」のである。この「知っている」という態度、すなわち自分の具体的経験からは決して導き出すことができないものを肯定的に捉える態度こそ、出来事を出来事そのものとして捉える態度であるべきではないだろうか。なぜならば、今まで見てきたように、出来事とは、最初から矛盾を孕んでいるが故に、解決することができない問いのようなものだからである。
以上