哲学とは何か
よくご質問をいただく
かれこれ7,8年程携わっているが、未だによくわからない
わかりたいからやっている
わかったらやめる
そういうスタンスで臨んでいるが、いつまでも沈黙を守り愚者をきどっているわけにもいかない
暫定的にではあるが、少しでも諸君に伝わればと思う
その解を導く手だての一つとして、ドゥルーズの言葉を借用する
「哲学とは何か」という問いに対して、彼は
「新しい概念を創出すること」と述べている
では、その新しい概念は何のために出てきたのか(なぜ新しい概念が必要とされているのか)
それは「新しい問いをたてるから」である
つまり、新しい問題に正確に答えるためには、それに相応する新しい概念(答え)が必要となってくる
問いと概念の一連の流れが哲学である、とドゥルーズは規定している
このことを踏まえて、自分なりの解釈を(ものすごく恥ずかしいけれど)提示したい
哲学とは、絵を描くことに似ている
例えば、ここに一枚のキャンパスがあるとする
白地のまっさらな、まだ何も施されていないキャンパス
何書いてもOK
哲学のスタート地点である
絵描きはえんぴつや絵の具という手段で以て、そのキャンパスに自分の筆跡を落とし込む
哲学も同様、言葉や概念という手段で以て、そのキャンパスに説明を加えていく
上で述べたように、描いている内容はデッサンだろうが抽象画だろうが、なんだっていい
デッサンなら現実を現実ありのままに描くような、アリストテレスのような絵が完成するだろう
反対に、抽象画なら現実世界には見出せないような、プラトンのような絵が完成するだろう
何も施されていない未規定の白地のキャンパス(=世界)に線や図(=言葉・概念)を挿れ描いていく
言うなれば、大海原を船が進行し、そこに「方向性(意味)」という規定を与えていくかの如く
その描かれた絵には大小様々な見どころがある
最もおいしいところは、神であったり、存在であったり、時間であったり、心であったり、
そういった概念装置
では、なぜ言葉や概念でなければならないのか
別に踊ることで(身体で表現することで)世界を説明したってよくないか
そもそも、世界を説明するのに言葉や概念という非常に曖昧なもので客観的妥当性を問えるのか
哲学に関して偏見的な見方をしている人は、たいていの場合、数字が大好きな唯物主義的リアリストである
ご最もです
しかし、哲学は物理や数学と似ている反面、物理や数学では説明しきれない世界を対象としている
それは哲学が優れているとか、物理・数学が劣っているとか、そういう話ではない
哲学が物理・数学に先行しているという話でもない(俺はそう思ってるけど)
万有引力の法則でも、相対性理論でも、統一理論でも、語りきれない領域がある
デカルトは学問を一本の樹にたとえる
根っこの部分が哲学(形而上学)
根っこは土を掘り返さないと決して見えることがない
脳科学者のように、「こころ」や「感情」というものを神経シナプスで説明し
物理学者のように、世界の資源を数式で表す
非常に明確
非常にシンプル
しかし、その明確さ・シンプルさを徹底した結果そぎ落とした部分に、何か人間の生業に関する大切なものがある気がする
それはもしかしたら言葉で表現できないのかもしれない
もしかしたら踊ってしか到達できない地点なのかもしれない
でも哲学者は踊れない
哲学者は言葉・概念という手段でないと世界を語れない
だから、「なんで言葉・概念でないといけないのか」という質問に関しては
残念ながら、「人間だから」ないし「哲学者だから」としかお答えできない
もちろん、哲学は現実味を伴っていない机上の空論であると言われれば、否定はできない
なぜなら、哲学がそもそも(皆が言う)現実味を伴っていないものを対象の主としているから
ただし、そのキャンパス(ないしは世界の設計図)をなぞることで自分の生や死を体現することとは、また別の話である
おそらくそれは、哲学ではなく「信仰」という信じるor信じないの次元だろう
話を戻す
いや戻さない
あるべき姿を、あるべき姿のままに
かれこれ7,8年程携わっているが、未だによくわからない
わかりたいからやっている
わかったらやめる
そういうスタンスで臨んでいるが、いつまでも沈黙を守り愚者をきどっているわけにもいかない
暫定的にではあるが、少しでも諸君に伝わればと思う
その解を導く手だての一つとして、ドゥルーズの言葉を借用する
「哲学とは何か」という問いに対して、彼は
「新しい概念を創出すること」と述べている
では、その新しい概念は何のために出てきたのか(なぜ新しい概念が必要とされているのか)
それは「新しい問いをたてるから」である
つまり、新しい問題に正確に答えるためには、それに相応する新しい概念(答え)が必要となってくる
問いと概念の一連の流れが哲学である、とドゥルーズは規定している
このことを踏まえて、自分なりの解釈を(ものすごく恥ずかしいけれど)提示したい
哲学とは、絵を描くことに似ている
例えば、ここに一枚のキャンパスがあるとする
白地のまっさらな、まだ何も施されていないキャンパス
何書いてもOK
哲学のスタート地点である
絵描きはえんぴつや絵の具という手段で以て、そのキャンパスに自分の筆跡を落とし込む
哲学も同様、言葉や概念という手段で以て、そのキャンパスに説明を加えていく
上で述べたように、描いている内容はデッサンだろうが抽象画だろうが、なんだっていい
デッサンなら現実を現実ありのままに描くような、アリストテレスのような絵が完成するだろう
反対に、抽象画なら現実世界には見出せないような、プラトンのような絵が完成するだろう
何も施されていない未規定の白地のキャンパス(=世界)に線や図(=言葉・概念)を挿れ描いていく
言うなれば、大海原を船が進行し、そこに「方向性(意味)」という規定を与えていくかの如く
その描かれた絵には大小様々な見どころがある
最もおいしいところは、神であったり、存在であったり、時間であったり、心であったり、
そういった概念装置
では、なぜ言葉や概念でなければならないのか
別に踊ることで(身体で表現することで)世界を説明したってよくないか
そもそも、世界を説明するのに言葉や概念という非常に曖昧なもので客観的妥当性を問えるのか
哲学に関して偏見的な見方をしている人は、たいていの場合、数字が大好きな唯物主義的リアリストである
ご最もです
しかし、哲学は物理や数学と似ている反面、物理や数学では説明しきれない世界を対象としている
それは哲学が優れているとか、物理・数学が劣っているとか、そういう話ではない
哲学が物理・数学に先行しているという話でもない(俺はそう思ってるけど)
万有引力の法則でも、相対性理論でも、統一理論でも、語りきれない領域がある
デカルトは学問を一本の樹にたとえる
根っこの部分が哲学(形而上学)
根っこは土を掘り返さないと決して見えることがない
脳科学者のように、「こころ」や「感情」というものを神経シナプスで説明し
物理学者のように、世界の資源を数式で表す
非常に明確
非常にシンプル
しかし、その明確さ・シンプルさを徹底した結果そぎ落とした部分に、何か人間の生業に関する大切なものがある気がする
それはもしかしたら言葉で表現できないのかもしれない
もしかしたら踊ってしか到達できない地点なのかもしれない
でも哲学者は踊れない
哲学者は言葉・概念という手段でないと世界を語れない
だから、「なんで言葉・概念でないといけないのか」という質問に関しては
残念ながら、「人間だから」ないし「哲学者だから」としかお答えできない
もちろん、哲学は現実味を伴っていない机上の空論であると言われれば、否定はできない
なぜなら、哲学がそもそも(皆が言う)現実味を伴っていないものを対象の主としているから
ただし、そのキャンパス(ないしは世界の設計図)をなぞることで自分の生や死を体現することとは、また別の話である
おそらくそれは、哲学ではなく「信仰」という信じるor信じないの次元だろう
話を戻す
いや戻さない
あるべき姿を、あるべき姿のままに