『ルクレツィアの肖像』@多摩南読書会 | First Chance to See...

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 前回の『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』に続き、本日またまた参加させていただいた多摩南オンライン読書会。今回のお題は、マギー・オファーレル著『ルクレツィアの肖像』(新潮クレスト・ブックス)である。

 

 

 読書会に先立って「好きな新潮クレスト・ブックスは?」というアンケートに回答したのだが、集まった回答が見事にバラバラだったのが印象的だった。私は自分が選んだ作品について「メジャーすぎて他の人と重複するかも?」とか思ってくらいだったのに。でも、参加メンバーの読書の好みや傾向がある程度バラけていたほうが、読書会としてはおもしろいに違いない。

 

 今回の『ルクレツィアの肖像』は、フィレンツェのコジモ一世の三女、ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチという16世紀の実在の女性をモデルに書かれた歴史小説だが、この女性、フェラーラ公アルフォンソ二世と結婚してわずか16歳で死亡している。物語は、夫に殺されるかもしれないと気づいた結婚後のルクレツィアと、メディチ家の三女として生まれ、独立心旺盛な生来の気質ゆえに両親をはじめ周囲から疎まれがちな子ども時代のルクレツィア、その両方の時制を交差させる形で進行するが、彼女の人生の最終決着地点があらかじめ分かっているだけに、結婚前はすごく心配りがあってすごく優しいアルフォンソが結婚後にじわじわとDV夫の本性をあらわにしていくさまが、私には心底恐ろしかった。

 

 その上で、この小説のラストにはちょっとした仕掛けがある。よく出来た仕掛けだと思うし、私は何も疑わずそのまま受け取ったけれど、読書会ではこの仕掛けをどう読み解くかでさまざまな意見が出て「なるほどな、言われてみればそういう見方もできるよな」と何度も目からウロコを落とす羽目に。こういう体験をさせてもらえることこそ読書会の醍醐味——この醍醐味の前では、うっかり自分のポンコツな意見をぶちまけて失笑を買うリスクなどものの数ではないと思う(というか、思いたい)。

 

追伸/著者にこの小説を書くきっかけを与えた、ロバート・ブラウニングの「先の公爵夫人」という詩をネットでググって日本語訳を見つけた。オファーレルの小説がルクレツィア目線なのに対し、ブラウニングの詩は夫のフェラーラ公の独白の形で書かれていて、最初はフツーにいい人っぽいのに独白が進むにつれどんどん器の小ささを露呈していく過程がめちゃくちゃおもしろかったが、ブラウニングと言えばとんでもなく長大な『指輪と書物』という詩でもとんでもなく器の小さい男を主役に据えてませんでしたっけ? 何を題材に何を書こうと詩人の自由ではあるけれど、何でまたブラウニングという人は「器の小さい男の精神構造」などというものを好んで選ぶんでしょうね?