First Chance to See...

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エコ生活、まずは最初の一歩から。

 猫のミチが我が家にやってきたのはちょうど4ヶ月前の1月19日だが、前の保護主さんがミチを路上で保護したのは今から1年ほど前のことになる。正確な日付は不明だが、保護してから約1週間ほど経ったところで動物病院に連れて行ったそうで、その診断書の日付が5月26日だから、わかりやすくその1週間前の5月19日をミチの保護猫生活の開始日とする。

 

 つまり、今日、2025年5月19日は、ミチの保護猫ライフ1周年記念だ。めでたい!

 

 もちろん、世の中には猫の室内飼いを動物虐待の一種と捉える人がいることは知っている。猫が本当に何を考えているか、人間には知りようがない以上、ミチが「マンションの一室に閉じ込められて人工的な餌を与えられて生き永らえるより、野生のまま早死にしたかった」と思っている可能性はゼロではない。が、うちのミチは猫エイズウイルスに感染しているため、他の猫への感染拡大を防ぐために完全室内飼いにせざるを得ないのだ。どうよ、さすがに反論できまい?

 

 ということで、4ヶ月かけて少しずつ少しずつ家猫らしく寛ぎ始めたミチの写真をいくつか公開する。

 

 

 ある日、私が風呂場から居間に戻ると、食器棚にもたれて座っていた。

 

 

 ドアにもたれて座っていることも。

 

 

 

 段ボール箱に入ったミチ。箱入り猫を見たくて、3ヶ月くらい箱を置いたままにした甲斐があった。でも、私が見ている時に箱に入ってくれたのは今のところまだ一度だけ。猫って箱に入りたがるものじゃなかったっけ?

 

 

 猫のヘソ天ポーズにも憧れるが、なかなか見せてもらえない。とは言え、私に見られたからって何もここまでびっくりしなくてもw

 

 

 そしてこれが昨夜のミチ。PCを操作中の私を、爪研ぎの後ろから覗き見していた。

 猫マンガの大傑作『私という猫』の作者、イシデ電の版画展があるというので、昨日、立川駅から徒歩12分ほどのところにあるネコヤブックスに行ってきた。

 

 

 版画展の会場はネコヤブックスの2階にあるギャラリースペースで、写真撮影も撮影した写真のSNSへの投稿もOKと書いてある。ということで、私も遠慮なく撮影させてもらったが、実物のほうが数段美しいのは言うまでもない。入場無料なので、興味のある方はぜひ。

 

 

 この二人展は、猫を題材に黒と決められたもう一色を使い、同じサイズで版画を作る、というもので、同じ色からイメージされる猫の姿や画面の構成がそれぞれに全然違っててすごくおもしろい。私が行ったのは日程の後半だったこともあり、展示作品はすべて売約済みだったが、売り切れてよかった、万が一にも売れ残ってたら私の理性が吹っ飛びかねないところだった。危ない危ない。

 

 あれかこれかと迷った末、坂本千明のイラスト付きサイン本『退屈をあげる』とポストカードを購入。イシデ電の猫目当てで会場に行って、初めて見た坂本千秋の猫にメロメロになった記念である。今、うちにいる猫のミチがハチワレなので、ハチワレ猫のイラストに弱い、というのもあるけど。

 

 

 で、一夜あけて『退屈をあげる』を読み、朝から泣いている。この本に出てくる猫に比べればうちのミチはとっても扱いやすくておとなしいけど、でも猫と暮らす基本は同じ。猫との同居がまだ4ヶ月に満たない私ごときが言うのもなんだが、わかるわかるわかるーーー!

 スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964年)は、今から30年くらい前、1990年頃にテレビで放送されたのを録画して観たことがある。

 

 

 映画が製作された1960年代といえば、まさにアメリカとソ連の東西冷戦の真っ只中、核開発競争の行き着く果てが本当に戦争抑止力なのか、はたまた全人類を滅ぼすのか、という、薄氷を踏むような恐怖が世界中に蔓延していた時代だったと思う。一方、私がこの映画を観た1990年頃といえば、ベルリンの壁が崩壊し、かつての東西冷戦って一体何だったんだろうね、でもまあこれでとりあえず世界戦争の目は消えたよね、と皆が何となく安堵していた時代で、それだけに映画『博士の異常な愛情』の強烈なブラックジョークに「こんな映画を1960年代に作ったもんだ」と感心しつつ、呑気にゲラゲラ笑って観ることができた。

 

 それからさらに30年の月日が流れ、2025年、スティーヴ・クーガン主演で舞台化された「博士の異常な愛情」は、1960年代の映画を21世紀にヴァージョンアップしたりせず、敢えて当時の内容そのままに翻案されていたが、2025年の今のほうが30年前に映画を観た時よりもはるかにこの作品のブラックジョークの数々に「全然シャレになってない」と戦慄したから恐ろしい。

 

 

 映画ではピーター・セラーズがイギリス空軍のマンドレイク大佐、アメリカ大統領、ストレンジラブ博士一人三役をこなしていたのに対し、舞台のスティーヴ・クーガンにはさらにコング少佐も加えた一人四役が与えられている。映画よりはるかに制約の多いはずの舞台上演で、映像を利用しつつ、役柄を入れ替えるタイミングを上手に用意していること自体もおもしろかったが、それぞれの役柄ごとの演技分けはもちろんのこと、それぞれの役柄ごとの間合いで見事に笑いをとっていくスティーヴ・クーガンの芸達者ぶりにも大いに楽しませてもらった。

 

 スティーヴ・クーガンといえば、映画『あなたを抱きしめる日まで』『ロスト・キング 500年越しの運命』でのナチュラルな演技と知的な脚本もいいが、マイケル・ウィンターボトム監督のフェイクドキュメンタリー(?))『イタリアは呼んでいる』シリーズで見せてくれたコメディアンとしての切れ味も素晴らしい。彼の代表作である「アラン・パートリッジ」シリーズもいつか観たいけれど、果たして日本語字幕つきで公開される日は来るかなあ?