『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』@多摩南読書会 | First Chance to See...

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 前回、私が多摩南読書会にオンライン参加させていただいたのは、ウィリアム・トレヴァー著『ラスト・ストーリーズ』の時だった。自分のブログ記事を探してみたら「2020年11月28日」付になっていて、あれからもう丸2年以上経ってたのか、せいぜい1年くらい前だと思ってたのに!

 

 多摩南読書会そのものは数ヶ月おきに開催されていたが、私自身の休日出勤日と重なってしまい、ずっと参加できずにいた。そして今回、ようやく休日出勤と重ならない日に開催される運びとなり、この機を逃してなるものか、と思った反面、課題本となったペ・スア著『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』を書店で手に取った時には正直ちょっと腰が引けた。

 

 

 「韓国文学史で前例なき異端の作家」「混沌の中から意識の底にある感覚を浮上させ、自分が何者であるかを夢幻的に探っていく三つの物語」——ぐぬぬぬぬ、普通の韓国小説にすら馴染みのない私が読んでついていけるものかしら、ましてや読書会で何か積極的に発言できるものかしら!

 

 ま、とにかく読んでみるしかない。

 

 『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』は三部構成の小説で、それぞれにウルという女性が登場するも、それぞれに似て非なる出来事や回想が登場し、似て非なるイメージやモチーフが展開する。別々の独立した話のようでいて、前の話に書かれていた出来事が別の形で後の話に取り込まれていたり、前の話の登場人物が後の話では別の角度から登場しているようなフシがあったりもする。わかるようなわからないような、ただし、イメージ喚起力の強さに引きずられるせいか、文章を読むこと自体は全然苦痛じゃなかったりするからこれまた不思議だ。

 

 ただし、この三つの話には一つだけ絶対的な共通点があって、どの話も映画監督ジョナス・メカスが死亡した翌日の「一日」に限定されている。ただし、「一日」と言っても夢や回想が現実と地続きのようにどんどん広がっていくため、とても「一日」の話とは思えない。そういうところはちょっとヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』ぽいかもな——とか、そのくらいのことは私も読みながら思ったが、言えるのはせいぜいその程度で、ううむ、こんな有様で読書会に参加して本当に大丈夫かしら……?

 

 結論から言うと、こんな有様でも思い切って参加してよかった。「読みやすいけどわかりにくい」と思ったのは私だけじゃなかった、というところから始まって、ジョナス・メカスの監督作品を実際に観たことのある人から説明してもらえたり、作品内で繰り返されるモチーフ(コヨーテとかカツレツとか)の登場箇所の一覧リストを見せてもらえたりと、有益で示唆に富んだ感想や読解をまさにたらふくご馳走になる。

 

 韓国の現代小説だけど、韓国に限定されるアイテムを恐らくは意図的に排して書かれた世界文学。そういう意味では、韓国の文学や風習に疎い私のような者にも開かれた小説、とも言える。おかげさまで、またほんの少し、私の世界が広がった。