ご訪問ありがとうございます
石橋伊久子です。
プロフィールとは言っても
時系列に箇条書き出来ないことを
書いています。
本音を書いているので
ちょっと過激な表現もありますが
ご容赦ください。
毒親に育てられた私は
結婚することによって
親から離れられ
25年間、平穏な生活を送っていました。
ところが
その生活も崩れてしまいました。
46歳の時に
2つ違いの弟が急死したのです。
くも膜下出血でした。
弟は
大学時代から実家を出て
ずっと一人暮らし
私も弟も
実家に寄り付かないので
お互い、15年以上も会っていませんでした。
うちの息子たちも
叔父であるのに
ほとんど記憶が無いと言います。
44歳で独身だったので
きっと親の面倒は見てくれるだろうと
思っていました。
でも、
思いがけず死んでしまったら
私が面倒を見るしかないのか?
弟が死んだ悲しさより
その絶望感が
私にのしかかってきました。
その時すでに
父は認知症を発症していました。
父の面倒は
実質、母がみていたのですが、
母も少し認知機能の衰えがあり、
しかも溺愛していた息子に先立たれて
判断力もあいまいなまま
父の治療計画や
介護施設の入居などの決定事項は
私の意見も聞かず
勝手に決めて、
あげくに数々の契約トラブルを起こしていました。
当の父も
徘徊が激しく
度々警察に保護されたり、
街の商店で暴れて
警察に通報されたりしていました。
父が死んだのは
弟の死後
ちょうど2年たった頃でした。
その時も
父の死の悲しみは無く
やれやれという気持ちでしたが
それより
残された母をどうしようか
という思いで頭がいっぱいでした。
引き取って
同居するなんて
死んでも嫌だ!!!!!!
子供のころ
散々私を傷つけたこのババアの
面倒をみるのは絶対に嫌だ!!!!
同居などしたら
私の生活がめちゃくちゃになるのは
目に見えていました。
幸い、近所に
小規模多機能型居宅介護
(デイサービスや訪問介護)
と
グループホーム
(認知症患者の共同生活施設)
を併設した施設があり
そこのケアマネが
「娘さんと同居したら
あっという間に衰えますから
一人暮らしをさせる方がいい。
私たちが責任を持って見守りますから」
と言ってくださってホッとしました。
母もそこの施設を気に入り
それは本当に良かった事です。
でも、
徐々に母の認知症は進んで行き
父の時どころではない
信じられないような行動に
翻弄されつくしていきました。
文字通り
「筆舌に尽くしがたい」
状態でした。
警察はもちろん
近所の商店にも
多大な迷惑をかけ続けました。
そして
私が一番こたえたのが
母の暴言でした。
昔とは違うので
私もそれに返してしまいます。
相手は認知症という病気なのだから
と、思おうとするのですが、
マグマのような怒りが湧いてきて
抑えることが出来ません。
一方で
そんな相手に
本気で食って掛かってしまう自分に、
激しく自己嫌悪に陥り
自分を責めました。
殺してしまおうか
と思ったのは
1度や2度ではありませんでした。
その細い首を思いっきり絞めてやろうか!
そこの台所にある包丁で刺してやろうか!
怒りで脳の血管が切れそうでした。
でも、それを思いとどまらせたのは
私の息子たちの事でした。
母親が祖母を殺したんなんて
殺人犯の子供になってしまったら
あの子たちがどれだけ苦しむか
せっかく人生、順風満帆に来ているのに
彼らの一生を台無しにしてしまう
そう思って留まりました。
私の63年の人生の中で
一番自分で自分をほめられるのは
このことです。
「よく思いとどまった
偉かったね」
親にも夫にもほめられない私だからこそ
自分をほめてあげよう
母は死ぬ1か月前に
脳出血を起こし
完全に人格が崩壊しました。
緊急搬送された病院で
一命はとりとめたものの
夜中に大声で叫ぶ、
ベッドの上で暴れる
看護師さんには殴りかかる、で
ついに病院を追い出されました。
行く当てのない母を引き取ってくれたのは
ずっとお世話になっていた
あの小規模多機能型の施設でした。
そこは
医療措置は出来ない施設だし
あまりに迷惑をかけすぎるので
早く死んでほしかったので、
施設付きの医師に
「もう何もしないでください」
と伝えました。
首をしめなくても
包丁で刺さなくても
結局、
私が母を殺すことになったわけです。
ずっと苦しがって
般若のような顔をして
野生動物のように
吠えていましたが
死に顔は
ウソのように穏やかでした。
それが
4年前の5月31日でした。
ここで
15年続いた私の暗黒時代が終わります。