今日は、
先日投稿した
晴明神社へ行った時の話
から思い浮かび、
菅原道真公が詠んだ
東風吹かばを詠んでみました
菅原道真公にしろ
去年末に最後に朗読した
瀬をはやみを詠んだ
崇徳天皇にしろ
こんなステキな歌を詠まれている
日本三大怨霊と呼ばれている
うちのお2人の歌を
読んでますが、
なぜ菅原道真公が日本三大怨霊と
呼ばれているかご存知でしょうか。
中流貴族の家に生まれた菅原道真は、
幼い頃より学問や詩歌の才能を発揮し
「神童」と呼ばれていました。
多彩な才能を持った菅原道真は、
870年に官吏登用試験で抜群の成績を修めて任官。
菅原道真はやがて朝廷の最高職とも言われる
右大臣に就任しますが、
そんな菅原道真の出世を快く思わない人も多く、
もう一人の権力者である
左大臣・藤原時平はその筆頭でした。
藤原時平は当時の天皇の醍醐天皇に
菅原道真は天皇を廃帝させるために
陰謀を企てていると伝え、
菅原道真は無実の罪を着せられてしまいます。
その後、時平の言葉を信じた醍醐天皇により、
菅原道真は左遷され大宰府に送られてしまいます。
無実の罪で太宰府へと流罪になってしまった菅原道真公は、どのように辛い心情だったでしょうか。そして、幼い頃から愛でていた梅の木に向かって、菅原道真はこの東風吹かばを詠み、太宰府へと旅立ったのです。
すると、
不思議なことが起こります。
菅原道真公が太宰府に着いた翌朝、昨夜にはなかったはずの梅の木が庭にあるのです。よく見てみると、それは幼い頃から愛でていた道真公の梅の木で、一夜にして道真公の元へと飛んでいったという飛梅伝説は有名ですよね
しかし、太宰府での道真公の生活は決して幸せなものではありませんでした。
藤原時平の指示により、太宰府では常に見張られての生活で、仕事も無ければ、好きな和歌を作ることも禁じられていたといいます。誰よりも家族を想っていた道真公は、家族とも離れ離れになった生活で、生き地獄そのものだったようです。
そして、その2年後、菅原道真公は無念のまま亡くなってしまいます。
すると、菅原道真公が亡くなってから朝廷では不思議なことが起こります。
道真公を不幸に追いやったものたちが次々と不可解な死を遂げていったのです。
そして、洪水、長雨、干ばつ、伝染病などが続くようになり、人々は、
きっと道真が怨霊となり、祟りをなしているはずだと噂するようになるのです。
そして菅原道真公は、祟りかどうか本当のことはわからぬまま日本三大怨霊の1人とされてしまうのです
そして、祟りを鎮めるために道真公を天神様として祀ったのが天満宮です。
道真公は、幼少の頃より学問を好んでいたため、天満宮に祀られた後、学問の神様として定着しました。
菅原道真公の死から80年以上経っても、祟りを鎮める菅原道真公を祀る北野天満宮に祭祀が行われており、その時代というのは一条天皇の時代。
つまり、安倍晴明公が陰陽師として、様々な活躍をされていた時代なのです
それで、太宰府天満宮に行った後に、晴明神社にお参りに行き、参拝中に目眩がしたわたしは、もしや安倍晴明公が祈祷を行ったのではと思った次第です。
安倍晴明公一族は、菅原道真公の不遇を不憫に想い、愛知に上野天満宮を建てていらっしゃいますし。
とまぁ、とにかく、歴史は面白い!
わたしは歴史が好きで、歴史を勉強したり語るともううるさいやつなので、
とりあえず、今日は、これで終わりたいと思います