お読みいただきありがとうございます。
人生の彩どり師・関みゆ紀です。
おわりははじまり-139「カカカの大喜利」の続きとなります。
後回しにしていた 「ガタガタ」と「ピアノ」のことを綴ります。
空海さんの、過去世の 田中雅子/紫花さんの歌の解釈も
「寿ぎ・言祝ぎ (ことほぎ)≒予祝」ともいえて
「単純に、秋の稲穂の実りを願って、
初夏(書家と変換されてしもた)に早苗を植える心持ち、
とも読めますね。」
おわりははじまりー115「じろうの横目がもう流れない」
過去世の 田中雅子/紫花さんから
現在の 田中雅子/紫花さんへの
時代を超えた「予祝」でもあります。
その意味を通して、来年の5月5日が、
その日付が「端午の節句=男子の祭」であること、
田植えの時期であること、その結び目から伸びる糸(意図)に思いを馳せる私がおります。
おわりははじまり-129「八十八のカミ合わせ」
2023年11月4日の 田中雅子/紫花さんから、
2024年5月5日の 田中雅子/紫花さんへのエールでもあり、
同じ「コモンゲート~Common Gate=共有の関」を通る人へのエールでもあるから。
かつて、仲違いした者、かつて、手を取り合った者、
双方を含めた「レクイエム」なんだと思うんですね。
魂は引き継いで来ているのですが、その肉体もその時代も過ぎ去りしもの。
そういう「者・物」たちに対しての「慈しみのアイ」、そう、「慈眼(じげん)」ですね。
だから「均し」なんです。
今までの十(プロセス)を〇(信頼)して。
だから、「ガタガタ」を均す(鳴らす)のです。
均さないと(鳴らさないと)同じ繰り返しのパターンは続く。
そうでないと「22を超えてゆけ」は、めちゃ難儀。
おわりははじまり-136「砂上の魚の赤と黒」
さて、ここで、南の「かんなぎプロ」あやちゃんと
北の「かんなぎプロ」まきちゃんの、共通点を語ります。
送信してくる側と双方向のコンタクトをしている巫女を、
「かんなぎプロ」と勝手に呼んでおります。
私は一方向的にワードを受け取る「巫(かんなぎ)」の要素は持っていますが
双方向でのやり取りは無いので、作為(自我)が発生しやすい。
(と、自分で思っています)
質問を投げ掛ければ、目の前の現象で示されるので、
双方向といえなくもないが、お二人のそれとはちょっと違う。
お二人ともチャネルしてる時は、電圧が変る感じがします。
完全に、今、パイプの状態になってますよね?と、横で観てて思います。
チャネルの間、無作為な状態(自我を横に置いてる)になっている。
(ように、私には見えています)
他者へ伝える為のメッセージ要素が強い分、自我を横に置く、
よって、記憶に残り辛い、だから記録を促されてる。
昔ならば、審神者(神慮を審察する人)を置いての、巫女への御神託システムでした。
神の民主化時代が到来しているので、本来の能力を開華させて、
それぞれの軸で繋がることが、肉体を持った意識体のヒトの進化でもある。
誤解しないでいただきたいのが、霊的な能力を高めることが本質ではなくて、
「アイ(天意・愛・目)」を深めること、高めることが本質です。
今様の巫女は、ハイブリッドなので、審神者のトレーニングも促されてる。
誰かのスゴイ言葉に、自身の意志と意図を通さずに、
無条件に自分を明け渡してはいないか?という「問い」は
常に目の前に提示されております。
「支配」には「従属」があっての表裏のワンセットですので。
その無作為な「巫(かんなぎ)」のお二人が、両方とも同じ表現を遣ってるのです。
これが、そのまま、裏である「バックアップチーム」の意図(真意・深意・神意)なんです。
例えば、今回、パリへ行く田中雅子/紫花さんに対して、
まきちゃんは、パリが「ガタガタ」という表現を遣いました。
実は、去年の4月13日に、あやちゃんは、
尾張が「ガタガタ」と、同じ表現を遣っているのです。
南北の「かんなぎプロ」が、示し合わせた(≒示し申す≒神合わせ)
ように「ガタガタ」と表現している。
今までに地鎮に関して「ガタガタ」という表現は出たことはなく、
面白いことに、お二人とも、田中雅子/紫花さんが絡む地鎮の案件にしか、用いていないのです。
ブログにアップせず、寝かせておいたあやちゃんとの会話です。
去年の「京都奈良」へ旅する前の話です。
この会話を「空海さん繋がり」の田中雅子/紫花さんへ送り、
仕事でそちら方面へ赴く予定のあった田中雅子/紫花さんが、
尾張の「ガタガタ」を均し(鳴らし)に向かいました。
要するに、全ての諸事情を承知の上で、
ハナワの拡がりを意図するバックアップチームが
あやちゃん➡関みゆ紀➡田中雅子/紫花さんの経由でお報せしてきたんですね。
同じ 「コモンゲート~Common Gate=共有の関」の
「地鎮チーム」宜しくお願いしまーす、ということなんだけど。
(本来は、地球上に生きるヒトは全て地鎮チームです)
注目すべきは、あやちゃんが「ピアノの鍵盤」に喩えてきたことです。
まきちゃんには、「シタールの音」でお報せが来た。
「シタール」の音は、「弁才天ウェイクアップコール」だと思われます。
私には、なぜか「ピアノの音」でお報せが来る。
これは、ピアノの鍵盤が「八十八」の数と
「8≒∞」個の「ド≒土」で構成されていて、
「麒麟」が出て来るからだと思われます。
「四国八十八ヶ所=空海さん≒田中雅子/紫花さん=過去世の和歌」
おわりははじまりー115「じろうの横目がもう流れない」
これを、2023年の私が想起する為の仕掛けにも遣っている、と思われるのです。
「神芝居」というこの世の493"仕組み"➡16"色"➡7"光"って
何本もの糸(意図)を撚った緻密な織物であることに、氣が付いてねって。
「八十八」は「8+8=16」の"色"へも変換できるし、
4代前(四合わせ)からの先祖(高祖父母)16人の数字でもあります。
まきちゃんの「シタール」と私の「ピアノ」を「無双=表裏の纏り縫い」すると、
弁才天の「八十八≒光」の音を放つ(鳴らす・均す時)が来ましたよ、となります。
それが、太平の世に現れる麒麟を呼ぶことに繋がっている。
2023年11月5日。
おわりははじまり-121「両関と白鹿と弥勒菩薩と」
「新田神社」絡みの行程を終え、最寄りの武蔵新田駅のホームに立つと、
掲示板に貼ってあったポスターに目が留まりました。
アフロディテとエロスは、なぜ魚に姿を変えて川へ逃げなればならなかったのか。
おわりははじまり-138「ギリシャ神話のタテの更新」
その神話が、何の「メタファー=比喩・隠喩」であったのか。
やっぱり、歴史にあるんですよね。
おわりははじまり-141「How to ツルキ・タチ」へ続く。
大変申し訳ございません。
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