一石何鳥が動くー223「光の船の動力とは」 | 「彩どり師の仕業」今様の巫女的生き方の心得指南いたします

お読みいただきありがとうございます。

人生の彩どり師・関みゆ紀です。



一石何鳥が動くー222「三と五の間の祓戸四神」の続きです。



ルートを確保せよ。

routeを確保せよ。

√を確保せよ。

rootを確保せよ。

利根川の源流(ルート)はどこなのでしょうか。

利根川のあらまし | 利根川上流河川事務所 - 関東地方整備局

【QUOTE】

利根川は新潟県と群馬県の県境にある

大水上山(標高1,831メートル)に水源を発し、

大小の支川を合わせながら、関東平野を北西から南東へ貫き、

千葉県銚子市で太平洋へと注いでいます。


関東地方整備局ホームページhttps://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00182.html

【UNQUOTE】



またもや、ぐんまちゃん登場ですね~。




一石何鳥が動くー132「トンボのイシを建てる」



坂東太郎を、東入ル・上ルと辿り着く先は、

利根川の始まり(root)は、

大水上山(おおみなかみやま)でした。

「天の川」の始まり(root)は、「OH!皆、神の山」でした。

「山の神」である「大山祇命」は、「和多志大神」とも呼ばれています。

木花咲耶姫と磐長姫の御父上です。




木花咲耶姫と磐長姫の伝言-85「木花咲耶姫と磐長姫」



「富士山の木花咲耶姫」と「大室山の磐長姫」のツインを取り持つ

「三嶋大社の大山祇命=和多志大神」のパパでございますね。




一石何鳥が動くー157「日精と月精が結ばれる」
宇宙の真ん中で愛智を学ぶー62「三嶋大社と第七感」



「OH!皆、神の山」それは「和多志」そのものです。

天の意は、神の民主化を示唆していますよってことですかね。




一石何鳥が動くー174「2022年11月27日のワケ」



スピリチュアルとは日常のことで、魂に基点があり、

肉体があってもなくても人は霊的存在(意識体)で、

進化(神化)を目指しているのだということ。

だから、東国三社って凄い位置に存在してるんですね。





関東地方整備局ホームページhttps://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00182.html



私のこじつけと思い込みと勘違いの主観の世界の話ですよ。

なぜ1月29日の徳川宗家十九代のお披露目と、

同日に、雑草ならぬ、野に咲く花の私が、

松戸神社へ麒麟の誓いへ行ったのか、

その意味を自らに問うてみたんですよ。

同じ傘下で動いているのですよってことなのだろうなって。

貴種(高貴な、特別な家柄に生まれること)の生まれの人々は、

それぞれの課題や業を持ってこの世に生を受け、

また、貴種とはいえない私であっても、

経験を味わうことによって伴う課題や業の解消を経て

進化するために生まれています。

抱える課題・業の大小、困難さに差はあれど、

そういう意味では同じでございますよ。

人類は、学術的には霊長類として括られていて、

人間を含めたサルの仲間のことなのですから。

「人間は互いの敬意と尊重の念の下、共生する」が大前提です。



宇宙の真ん中で愛智を学ぶー58「忍潮井の女神と男神」2021.6.16

より抜粋します。

【QUOTE】

息栖神社のことを書こうしたら、

3月29日6:48にメモしていたものがあることを思い出しました。

3月28日と29日の二日連続で受け取っていて、

纏めてメモしていたのです。







3月28日に受け取ったヤギの船って何のことだろう?と思っていたのですが、

ヤギとは、八木=米のことを言っていて、

このことを伝えたかったんですね。



宇宙の真ん中で愛智を学ぶー55「八十八の世界」





よって、「米の船」と読み取れます。

「ヤギ」と伝えてきているので、「八木」だけでなく、

日本語の同音異義語の奥行きで、 蜘蛛の巣のように拡がり、

答えは一つではなく、多岐に渡っています。

【UNQUOTE】



2021年3月28日の夢は、

「ヤギの船」=「米の船」=「光の船」の船出を指しています。

その「クルー=乗組員」と「動力」とはの「解い」が

2021年3月29日の夢でした。

9割 90%の普通の人に託される試練、役割、経験したことがないこと。

この「光の船のクルーであり動力ある」だったんですね。





この時代・このタイミングを

選んで生まれてきた

好奇心に満ちた

わたしの魂の欲求に相応しい

ダイナミックな微調整を

体感するクルーの一員として

意識をひらいて(開く・啓く・拓く)

加担する



先日NHKの「智恵泉」という番組を観ていたら、

「自らのベースを深く知ることそれが力になる」というテーマの時に、

民俗学者の柳田国男さんの肉声が流されました。

「記録にもなんにも現れない人の生活というものが

日本には80パーセント以上あるんですよ。

悪いことも良いことも両方ともしなければ、

記録に残りはしないですからね。

つもり埋もれてしまって一生終わるであろう

訴える道がなくてしまうであろう

犯罪もしなければ良いこともしないでいる

というような人がね

ただなんとなくその息を吸っていくのを惜しがって

それに関する知識を残そうとしたのが

フォークロア(民俗学)って言葉なんですよ。」




これに対しての荒俣宏さんのコメントです。



「フィールドワークは学問でも教育でもなく

まさに自分自身がルーツを発見する」




知らぬが仏、知ったら修行。

「修行」という言葉の醸すストイック感、

これまでの「太郎性」の旧態依然さから来る重さは、

時代にそぐわないかも知れません。

生活という日常の中にスピリチュアルな氣付きがあるからこそ、

9割 90%の普通の人に託されているのですから。

本質は、「自分で自分を育てる」なんですよね。

「自分で自分の魂(玉・珠・霊)を磨く」なんですよね。

それが魂の仕事でもある。

だから、私は「記録と記憶に残すために」ブログを綴っているし、

各地へ出掛けてフィールドワークすることによって、

自分自身のルーツを発見しています。

ルートを確保せよ。

routeを確保せよ。

√を確保せよ。

rootを確保せよ。

その過程の中での「氣付き」こそが

「光のつぶて」と呼ばれるもので、

「光の船」の動力なんです。

だから、誰にも褒められるものでもない。

でも和多志のチームは観てるんですよ。







その経験の記憶と感情が、アカシックレコードに刻まれ、

流れの絶えぬ、循環のシステムに加わっていくから。

そのことを知ると、無自覚と自覚の振り子が揺れて進みます。

わかるまで、その繰り返し。

荒い揺れは、そのうちに細かな振動になり凪になっていく。

だから、知らぬが仏、知ったら修行なのです。

と、シッタカブッタ、シッタカタッタッター(^O^)/







先日、半年ぶりに再会したF先生に言われましたよ。



「やっと、叩かれなくなりましたよ。

私を±⓪の地点に持ってく為の

3年間だったんだなというのがわかりました。」




「交わし方がわかっただけだからね。」



脳内に住む財津一郎先生が叫んでます。

非情にキビシー!



一石何鳥が動くー224「幸せならそれでいい」に続く。



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