・”毒親” ってdisってたわたしは、わたしをたんまり傷つけてた最低なやつだった。 | 加藤なほ 「"毒親育ち" からの人生改革」

加藤なほ 「"毒親育ち" からの人生改革」

毒親育ち、アダルトチルドレン、恋愛依存(DV)などの実体験を元に、"わたし" を生きる方法を伝えています。
▶︎セッション実績…2013年〜 5000件以上
▶︎メディア…NHK(クローズアップ現代+/あさイチ他)/朝日新聞/他多数。
▶︎著書「ワタシの母は毒親でした。」



実は前記事の続きなのですが。

わたしも絵菜ちゃんも親を毒親と呼んでいたし、死にたいってずっと思っていたし(わたしは母親を殺しそうだったし)、自分のことが大嫌いで、恋愛でも悩みは尽きず 、親と絶縁した経験があります。

絶縁しても心からの幸せなく一時のラクさで。(気づきとか、たんまりあるけどね。絶縁したほうがいい人もいるしね)
苦しくなってつらくなって、もうこんな自分嫌!って思って、時期は違えど二人とも自分と向き合い続け、二人とも去年、母親とコミュニケーションをとり、毒親  という幻想から、自分を解放できた。
今では、「毒親なんて、いなかったね」って感覚に至っているということ。

そんな絵菜ちゃんとは、「(毒親育ちの)親(つまり毒親のこと)ってさ、ある意味神だよね」なんて話したりします。

いなかったんです、わたしには毒親が。
毒親は、わたし創り上げた幻想でした。
わたしに毒親はいなかった  って最後に思えたことで、わたしのおかんは毒親じゃなかったわ  わたしは思えたってこと。
伝わりますか。
毒親でも毒親じゃなくてもどっちゃでもいい
毒親でもあり、毒親ではなかった
ということです。
伝わりますか。

これは、わかる人にしかわからない感覚かもしれない。
この域に達したとき、やっとわかること。
この域にならないと、わからないこと。
この域に達したとき、ぐっと楽になる。

「あはははは~、ばかみたい…」
「なんか笑えるし、泣ける…」
「滑稽やわ、わたし」
と自分のことを笑いとばせたりステキな気持ちに包まれたり、わけわからない涙があふれたりする、すごくすごく、満たされるとき。

毒親でも毒親じゃなくてもどっちゃでもいい
毒親でもあり、毒親ではなかった
がわからない、理解できないと、
あーだこーだ思うかもしれない。

それもそうだと思う、
5年前のわたしがこれを読んだらわたしもあーだこーだ言うと思うし、ブログにも書いてるけど、5年くらい前に母親との関係が良くなっていく、会ったこともないカウンセラーさんのブログのコメント欄に、わたしdisってコメントしましたからね…
匿名でね…

そんなわたしにね、今だったらこう言いたいの。

「あんたさ、楽になりたくないの?
もっと幸せを感じたくないわけ?
過去の体験をぐちぐち言ったり、他人のブログ見て文句言ったりひがんだりしてんの、見苦しいよ。
自分が不幸なのアピってるだけやん。
情けないよ。

これからあんた、どうしたいのさ。
幸せになるの?ならないの?
早く覚悟してよ。
足りねーよ覚悟が。

あーだこーだ人のこと言ってる暇があるなら、
人と比較してる暇があるなら、自分の人生変えてく努力をしてよね」

わたしからの、愛のムチ。
わたしへの可能性を信頼してるから、言える。
信じてなかったら、言えないこと。

これを聞いた過去のわたしは今のわたしについていくかもしれないし、拗ねるかもしれないなとも思う。
否定された!って怒るかもしれない とも思う。
だから、これを読んで、そんな気持ちになる人もいるかもしれないって、不安や心配はもちろんあります。
(「そんな心配、自意識過剰だよお前!」と突っ込む、ブラックなほの声がしましたが)


人と比べるのも、人のこといろいろ言いたくなるのも、変わりたいって思ってもできないよ、難しいよって思うのも、これを読んで否定された!って感じるのも、覚悟するが怖いのも、わたしは全部わかる。
わたしも通ってきたから。

通ってきたからこそ、この域に達する幸せを伝えたいと思う↓

ーーー
母は毒親でもあるし毒親でもない。
が私の答えかな
私もACでもあるしACでもない。
母が毒親で良かったとも思うからね
そうでなかったら今私はこんな風になっていないから。
尊敬して自慢できる最強の母です。

ーーー


ーーー
毒親育ち アダルトチルドレン 生きづらさ、
知ってからがしんどい
気付いてからがしんどい
と、よく言われる。
ホントそう。
けれど、
しんどい分、真逆に振った時の喜びは、幸せは、
闇が深い分、とてつもなくでかいものだと私は思う。
私たちにとっては、とてつもなくでかい幸せだったりする。

ーーー

自分と向き合うのはしんどかったけど、向き合って、苦しんでよかった。
過去よりぐっと幸せだから。

きっと読者の方は、そんな未来を希望に思い、わたしのブログを読んでくれてると信じて、この記事を書いています。


ただ、↑を読んで、毒親はいない  と思おうとするのは違うってこともちゃんと伝えたい。

よく聞かれる ”親を許すのか論” だけど、許す必要はない。
自分と向き合ってるとね、気づいたら、「あれ、許すもクソもなくない?」になるんです。

ただ、今の時点では許せないから、許さないといけないの?って質問が出る。
つまり、許せない、それが事実。
だから、許せなくていい、許さなくていい。
事実を淡々と、自分を責めることなく観ればいい。
ただ、わたしがいいたいのは、自分をもうほっとかないでほしいってこと。

それを、ここから書く。


毒親のせいにして、自分が幸せになることへの決意を決めない人は、ずっとずっと親のせいにするのね。
わたし、そうだったのね。
それって失礼だったなって思うの、わたしがわたしに。
自分のことばかにしてるし、大切にしてない。
自分のこと大切にしてないほど、すごく悲しいことはない。

セッションや講座などで無理くりがんばってきた人にも出会う。
無理くり頑張って疲れたから、来たんだねって思う。

「もう、自分のことを無視するのやめてあげて。
大事にしてあげて、もういい加減に自分を。
よくやってきたねって言ってあげてよ、そろそろ本気で」
と伝えることがあるけど、わたしが泣きそうになるときがある。
相手の中の、大切にされていなくて悲しんでたり怒ってたりする相手が観えるから。

もう、大事にしようよ。
毒親  だなんて言ってないで、あなたがあなたを大切にしてあげてって思う。

伝わってるかな。
毒親って言葉、言う  のが悪いんじゃなくて、自分を大切にして(向き合ってあげて) っていうことです。
毒親毒親いってるうちは、自分に目が向いてないの。
向けてあげてよ、誰よりも大事なあなたでしょ。

でもね、その向き合う覚悟というか幸せになる勇気というか(岸見先生の本のタイトルパクりましたが)、そんなもんは、
幸せになる
もうこんな自分は嫌だ
と、
心底落ちきった
心底自分に幻滅した
心底自分を大嫌いになりきった
後、思えるのだとも思う。

落ちきっていない人は、覚悟が決まりづらいように感じる。
覚悟というのは、ここぞというときに決めるもの。
ここぞっていうのは、
もう自分を幸せにする
もうこんなのやめたい
みたいなところで、それは、
心底落ちきった
心底自分に幻滅した
心底自分を大嫌いになりきった
人でないと無理かも  って、この仕事してて、自分を振り返ってずっと思ってる。

だから、覚悟決める難しさもわかる。
覚悟した人の方が、変化は速い。
できない人は、頭で考えて、行動ができなくなっちゃう。
それって、自分への抵抗なんだよね。
そういう人は、落ちきって降参しないと腹は決まらない。

生ぬるい人は、生ぬるい幸せしか掴めない。
とはいえ生ぬるいのが悪いんじゃない、幸せはそれぞれだから。
ただ、わたしは、生ぬるいのではなく、もっともっとわたしを追求したいので、腹を決めて覚悟する方を選び続けてきたし選び続けてるし、そんな人を応援したい。


30まで生ぬるい人生だったと自分の人生を振り返ります。
今だから思えることで、当時は当時で必死ではありましたし、その都度ベストを尽くしていたと思う。
だから生ぬるかったのがダメだったとは思わない。
↑このニュアンス、伝わるでしょうか。

腹が決まってなかった。
覚悟が、なかった。
できなかったんだろうと思う。
でも、それはそれで、仕方がなく、当時のベスト。
人に合わせ、人の顔色を伺い、否定されぬよう嫌われぬよう生きていかしかないと思っていたから。

でも、いま思うとホント生ぬるかった。
どの部分で?
自分が自分を幸せにする部分で。
わたしは、弱すぎた。
でも、それがわたしだった。
 
全部ひっくるめて自分を認めて、
「これからどうしたい?」
って方へわたしはどんどん向かっているし、向かうし、そんな人の力になれたらと思う。
腹を決めたい、腹を決めたよどうしたらいい?  って人の力に。


disるってのは、自分を大切にしてない、自分への侮辱ってこと。
親に限らず、誰へでのdisりも。

disってもいい。
でもその裏にある自分の本音を大切にしようってことなの。

次回は、”生きづらさやセルフイメージは実は自分への愛でしかない” について書きます。
生きづらさって足かせに見られがちですが、めちゃくちゃ愛なのです、加藤理論では。