わたしは
毒母である毒親に悩み、
2011年9月、このブログをはじめました。
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私は来月、入籍を予定しています。
挙式は年が明けてから、海外であげます。
私が彼と両親を会わせたのは、
その一週間ほど後に対決をしています。
《”対決”を決心「あんな男と一緒になると、不幸になるに決まってる!」》の続きになりますが、
今年のお正月、とても嫌で、気が重かったけれど、両親に対し、
「彼が結婚のあいさつに来るから時間を下さい」
と申し出ました。
予想通り、母はぶち切れ、泣きわめきました。
(なぜ泣くのか・・・)
間に入る父の声も届かず狂い、熱いお茶の入ったゆのみを私に投げつけようとしたところで、
父が大声を上げ・・・
ともう散々でした。
この話を後日友人に話しても、半信半疑でしたので、
この時の様子を録音しておけばよかったと、後日反省しました。
(友人もどうして信じてくれないんだろう・・・)
「あんな男と一緒になったら不幸になるにきまっとる!
お母さんにはわかる!」
「お前みたいな娘、恥ずかしくて仕方がない!
情けない・・・」
「お前なんていなかったと思って生きていく!
出てけ!
自分で買ったものだけ持って出ていけ!
昔のアルバムはおいてけ!」
「お前なんてこっちから絶縁だ!!」
と、毒母は喚き散らしていました。
この他にもたくさんの名言を喚き散らしました。
私は、夏の彼との面会や、
その後の対決、その後の母の態度、
すべてひっくるめて、この半年間、殺したいくらいに母が嫌でした。
殺すか自分が死ぬか、そこまで思いつめ、
お勝手に行ったときに母がいたら、包丁を突きつけて刺してしまいそうだったので、
母がいるときにお勝手に行って二人きりにならないようにしていました。
優等生だった私ですが、この半年間は近所に丸聞こえなくらいに暴言を吐き続け、
悩み悩みぬき、家を出る覚悟を決めていました。
なので、母から出てけと言われ、ラッキーでした。
とても冷静に、
「そうですか、んじゃ出ていきますね」
と冷静に言葉を返しました。
父からは、
「いいか、出ていくということは二度と帰ってこれないからな」
と言われました。
たぶん、
「俺たちがいいように思っていない相手と結婚するということは、
たとえ離婚しても戻ってこれないからな」
ということだと思います。
・・・普通、こんな毒母がいるなら、せめて父だけでも
「何かあったら帰っておいで」
じゃないのか?
と思いましたが、機能不全家庭であるこの家に戻ってくることはないので、
そう言われてもうれしくないか と思い直しました。
夏に対決を終えていたし、心も落ち着き始め、家を出る決意もほぼ固めていたせいか、
母に似て感情的にすぐなってしまう私が、こんなにも冷静にしていられました。
機能不全家庭ということに気づいていなかったら・・・
彼との結婚すら考え直し、きっと彼と別れて、母が喜びそうな相手を探していたと思います。
それが正しいことだと思っていたから。
もちろん、家を出ることも考え直していたと思います。
そう思うと恐ろしいです。
だって、母の思いのままだもの。
スクールで勉強していて、
機能不全家庭という言葉や毒親という言葉に出会えて、
本当によかった・・・
そして、
お正月からおよそ一カ月後の2月半ば、
私は大嫌いな家を出て、彼と暮らし始めることになったのです。
《彼が望む結婚の許し… 「実家に行きたくない」》に続きます。