わたしは
毒母である毒親に悩み、
2011年9月、このブログをはじめました。
・
母の計画は、私たち子どもを生んだときから始まっていたと思います。
母は一人娘です。
「我が家の名字を、墓を、守っていかなきゃならない」という、
両親からの圧力でも感じていたのではないでしょうか。
信田さよ子先生の本で、墓守娘という言葉が出てくる本があります。
この本は私も読みましたが、私から見れば母は「墓守り娘」です。
婿養子にきてくれた父は、我が家が機能不全家庭であることも知らず、
母の計画には好都合なパートナーだったんでしょう。
「長男と付き合うとじじばばに反対された」
と、幼い私に母はよく言っていました。
「本当は警察官だった長男の人と一緒になりたかった」
とも。
そんなこと、聞きたくなかったけど・・・
母は、私と弟を産みました。
母は、結婚と同時に勤めていた会社を退社し、
子どもができてから数年後からパートを始めたような記憶があります。
同居するじじばばに面倒を見させ、じじばばはうれしかったことでしょう。
祖母は若くして母を産んだので、「おばあちゃん」になったのは40代前半でした。
それは元気に孫育てに家事に精を出していました。
家事に というのは、母は実母である祖母に甘え、家事はほとんどやらないからです。
それについて、母に聞いた小学生の私に対し、
「邪魔だから手を出すなっていうんだもん」
と、母はいつも言っていました。
子どもが中学生になれば、
朝練で私たちのほうが起きるのが早く、母が最後に起きてきます。
朝食の支度からすべて、祖母が家事をやるので、
ぬくぬく寝ていられるのです。
そんな母親です。
意識はしてないと思うけれど、母は、心のどこかで、母親である祖母に対し、
「かわいい孫をうんで、好きなように面倒みさせてあげたし、親孝行できたわ」
と思っていたのではないでしょうか。
すくすく育ち、小学校のころから勉強もできた優等生の私は、
母が書いた感想文や自由研究など、いろんなことで表彰されました。
先生からも近所の人からも、同級生の親からも、
いつしか期待の星のように見られ、とても苦しかったのを覚えています。
小学校4年のときには、級長を担任に押し付けられそうになり、泣いていやがったことがあります。
先生も悪気はなかったと思うし、諭すように頼んできましたが、
今となっては、まじめで成績のいい、
いわば扱いやすい私にやってほしかったんだろうなって、わかります。
当時すでに、優等生のレッテルに苦しんでいた私は、級長なんて絶対嫌でした。
小学校高学年の頃には、母親に、
「あんたは医者か学校の先生がいいね♪」
と言い聞かされたものです…。
《20代男性教師からのセクハラ…「イヤ!」 と言えなかった小学4年生のわたし。》に続きます。