毒親である母の、"わたしを使った" 夢① | 加藤なほ 「"毒親育ち" からの人生改革」

加藤なほ 「"毒親育ち" からの人生改革」

毒親育ち、アダルトチルドレン、恋愛依存(DV)などの実体験を元に、"わたし" を生きる方法を伝えています。
▶︎セッション実績…2013年〜 5000件以上
▶︎メディア…NHK(クローズアップ現代+/あさイチ他)/朝日新聞/他多数。
▶︎著書「ワタシの母は毒親でした。」

 

 

わたしは

毒母である毒親に悩み、

<このような思い>

2011年9月、このブログをはじめました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母の計画は、私たち子どもを生んだときから始まっていたと思います。



母は一人娘です。



「我が家の名字を、墓を、守っていかなきゃならない」という、

両親からの圧力でも感じていたのではないでしょうか。



信田さよ子先生の本で、墓守娘という言葉が出てくる本があります。

 



この本は私も読みましたが、私から見れば母は「墓守り娘」です。

 



婿養子にきてくれた父は、我が家が機能不全家庭であることも知らず、

母の計画には好都合なパートナーだったんでしょう。

 



「長男と付き合うとじじばばに反対された」

と、幼い私に母はよく言っていました。



「本当は警察官だった長男の人と一緒になりたかった」

とも。



そんなこと、聞きたくなかったけど・・・



母は、私と弟を産みました。

 



母は、結婚と同時に勤めていた会社を退社し、

子どもができてから数年後からパートを始めたような記憶があります。



同居するじじばばに面倒を見させ、じじばばはうれしかったことでしょう。



祖母は若くして母を産んだので、「おばあちゃん」になったのは40代前半でした。



それは元気に孫育てに家事に精を出していました。



家事に というのは、母は実母である祖母に甘え、家事はほとんどやらないからです。



それについて、母に聞いた小学生の私に対し、

「邪魔だから手を出すなっていうんだもん」

と、母はいつも言っていました。



子どもが中学生になれば、

朝練で私たちのほうが起きるのが早く、母が最後に起きてきます。

 



朝食の支度からすべて、祖母が家事をやるので、

ぬくぬく寝ていられるのです。



そんな母親です。



意識はしてないと思うけれど、母は、心のどこかで、母親である祖母に対し、

「かわいい孫をうんで、好きなように面倒みさせてあげたし、親孝行できたわ」
と思っていたのではないでしょうか。



すくすく育ち、小学校のころから勉強もできた優等生の私は、

母が書いた感想文や自由研究など、いろんなことで表彰されました。



先生からも近所の人からも、同級生の親からも、

いつしか期待の星のように見られ、とても苦しかったのを覚えています。



小学校4年のときには、級長を担任に押し付けられそうになり、泣いていやがったことがあります。

 



先生も悪気はなかったと思うし、諭すように頼んできましたが、

今となっては、まじめで成績のいい、

いわば扱いやすい私にやってほしかったんだろうなって、わかります。

 



当時すでに、優等生のレッテルに苦しんでいた私は、級長なんて絶対嫌でした。



小学校高学年の頃には、母親に、

「あんたは医者か学校の先生がいいね♪」

と言い聞かされたものです…。



 

《20代男性教師からのセクハラ…「イヤ!」 と言えなかった小学4年生のわたし。》に続きます。