豊中市庄内の塾、佑学塾、塾長のブログ  -49ページ目

模倣と習熟

江戸中期の儒学者、貝原益軒の「和俗童子訓」の一節


およそ人は、よき事もあしき事も、いざしらざるいとけ[幼]なき時より、ならひなれ[習ひ馴れ]ぬれば、まず入りし事、内にあるじ[主]として、すでに其性となりては、後に又、よき事、あしき事を見ききしても、うつりかたければ、いとけなき時より、早くよき人にちかづけ、よき道を、をしゆべき事にこそあれ。


人は、幼児のころから、まわりの人をまねて「習い馴れ」ていくものであり、それが子どもの心の「あるじ」となり、生まれつきの「性」と変わらないものになる。したがって、幼児のころから、「よき事」「よき人」に近づけ、「よき道」を教えるべきである。悪いことが「性」となってしまった後にそれを変えるのは困難なのだから・・・。ほんもの・善きものを模倣し、練習し、習熟し、習慣化し、自分の性(第二の天性)にしていくこと、それが学習と教育の要諦である。


素晴らしい!


模倣 → くり返し(反復練習)→ 習熟 →習慣


うん!シンプルだ。


結局、いつの時代も、真理は真理なのだなあ。

父親の役割

「わが子の幸せを願うならば、まず母親が幸せを感じていなければならない」

「わが子の安寧を願うならば、まず母親が安寧でなければならない。」

と思うのです。



何故なら、子どもが小さいとき、いつもそばにいるのは母親。

いつも面倒みてるのも母親。接している時間が長いのは母親。


ということは、母親が機嫌が悪い、母親のストレスがたまっている、

母親が煮詰まっている、母親が幸せを感じていない、という状況は、

すぐ子どもに伝わってしまい、母親も子どもも可哀相。



で、父親は確かに、家庭生活の根幹を成す「仕事して稼ぐ」という、

重要で重大な責任ある役割を担っている。

がしかし、それだけではわが子の幸せは望めないのでは?


とこのような考え・意識を持っておくことで、

ふとした瞬間に、そのように行動できるのではないでしょうか。

宿題をサボる

よくあることなのだが・・・特に中1の生徒。

昨日、宿題の答え合わせをしていて・・・

講師「あれ?お前半分以上やってへんやんけ。なんで?」

生徒「わかりませんでした。」

講師「ほ~ぅ、じゃあどんな問題があって、どんな所が
  分からなかったのか、言ってもらおうか。ただ単に
  さぼっただけなのに、分かりませんでしたという、
  もっともらしい言い訳をしているだけやったら、
  エライことになるけど、ええんかいな?」

生徒「・・・・・・さぼりました」

講師「やっぱりな。お前は嘘をついた。それは理解できるな?
  次回また同じことしたら、どうなるか分かってるやろな!」

生徒「はい。もう二度と・・・」


まあ、小学校時代、宿題をするのが面倒くさくて、その言い訳に
「わかりませんでした」
が通用していたのだろう。
ウチでは絶対に許されない(笑)


あと、「時間がありませんでした」という言い訳もよくある。


講師「ほ~ぅ、じゃあ、昨日と一昨日、どういう行動をとってたのか
  一から説明してもらおうか・・・

   以下省略(笑)

残心

先日、テストをやらせていて・・・

まあ、よくできる子が、さっさと終わらせてしまったすぐ、

見直しをまったくせずに、机にうつぶせになり、眠る体勢になった。

それを見かけて、私は軽く手刀で頭をコンとしながら、


「あんな、剣道で、残心っちゅうのがあんねん。メ~ンってするやん。
 その後に、反撃に備えた心構えになっとかんと、一本ちゃうねん。

 それと同じやん。出来たからといって、あ~終わった終わったって
 安心したらアカン。ミスはないか、勘違いはないか、確かめてから
 やっと終わりやねん。見直しせんか~い!」

どういう子どもに育てたいのか

数年前から、入塾の問い合わせ、小学校低学年が増えた。

危機感を感じている親御さんが、「少なくない」ということだろうと思う。

そのとき、題にあることを遠まわしに聞きます。
(ダイレクトに聞くわけにはイカンもんね)

例えば・・・

小2で算数の他に、英語もやらせたいという。

そのときの私の台詞。

「どうしてもと仰られるならやらせていただきますが、私の本音を言わせていただければ、まだ必要ないというのが正直なところです。それよりもまず、国語です。英語というのは外国語ですから、母語のレベルを超えて、身につけさせることは出来ません。国語をしっかりとやって、国語力が高い方が、結局、英語の力も、習い始めると、そのぶん身につきますよ。ウチの英語は読み書き中心ですから、小6からでも十分間に合いますよ。なぜ英語をやらせたいと思っていらっしゃるのですか?」

中学になったとき、英語が出来ていれば、定期テストのときなど、
他の教科に勉強時間を割くことができると思いまして、とのこと。

「それならば尚、まだ必要ないと思いますよ。低学年で英語の発音や、リスニングの耳を鍛える、ということであれば今からやる方が良い、という部分もありますが、そうでなければ、算数・国語だけで十分ですよ。そして2年生ですから、まずは学習の習慣を身につけることが一番重要です。これを確立してる子は、どんどん伸びていきますし、後に英語をやらせても伸びていきますよ。」


親御さんの中には、「英語が得意ではない」という人が少なからずいて、
英語が得意ではない理由として「中学からやり始めたから」という考えを持ち、
逆に言えば、「幼いころから英語をやれば、できるようになるのではないか?」
という淡い幻想を抱いている人が、これまた少なくない。

考えなければいけないポイントは、

・高校入試・大学入試に必要な「英語力」と、いわゆる「英会話の能力」はまったく違うもの
・「英語ができる」「英会話ができる」というのは、「ツール(道具)」の一つ
・英語ができたからといって、それで「食える」人はごくわずか
・幼い子は、覚えるのも早いが、忘れるのも早い(英語習得には不断の努力が必要)

などでしょうね。

小学校低学年であれば、まずは「学習習慣」
教科であれば「国語力」であると思います。

教育の「外部経済効果」

外部経済効果とは、ある個人の活動が、市場を経由しないで、
他の個人に与える、好ましい効果のことである。

例えば、農業経営者が果樹園を営むと、近くの養蜂家は蜂蜜の
生産を増加させるできるので利益を得る。このとき、農業経営者は
養蜂家から金銭の支払いを受けることなく利益を与えている。

これを教育に置き換えてみた場合、教育で社会的価値や行動規範
を教えれば、その好ましい影響は社会全体に及ぶ。また、教育により
社会の成員の識字力が高まれば、情報伝達が容易になるなどの、
社会全体としての利益を得ることができる。

もっと卑近な例を言えば、無知・無学な人々が住む社会に、唯一人
博識・博学の個人がいたとする。この個人は他の人間とコミュニケイト
できないから、自分の情報や知識を他人に伝達することができない。
他人が持っている情報を受け取ることもできない。その人が持つ
情報や知識の唯一の使途は、自分を自家消費することだ。この場合、
この人の持つ情報や知識は完全に私的なもので、外部性は無い。

何が言いたいかというと、これを被教育者に置き換えた場合、
勉強するのは「自分のため」だけではなく、「他人のため」
ひいては「社会のため」という側面もあるのだということだ。

無論、このようなことを子供に言っても通じないし、勉強するための
説得性もありはしない。大人・親に向かって言いたいのだ。近年では、
「勉強は自分のためにするもの」という認識を持つ者がほとんどでは
ないだろうか。もちろんそれもあるのだが、前述の観点も必要だろう。

「勉強は自分のためにするもの」ということだけでは、では自分のため
にならないから、自分には必要ないから、というエクスキューズ(言い訳)が、
容易に成立し得る。

だからと言って、「社会のため」に勉強しなさいと子供に言え、と
いうことではなく、そのような意識を持ち、子供が社会に出たとき
困ることのないように、また、未来の社会がより良くなるように
腐心することにも責任があるのだ、と言いたいのだ。

子供にしっかり勉強させるということには、「個人的」「社会的」
二重の責任が我々大人・親にはあるのだと言いたいのだ。

ブス・ブサイク25か条

友人のブログよりいただきました。


宝塚歌劇団の壁にはってあるらしいです。

1.笑顔がない
2.お礼を言わない
3.おいしいと言わない
4.精気がない
5.自信がない
6.グチをこぼす
7.希望や信念がない
8.いつも周囲が悪いと思っている
9.自分がブスであることを知らない
10.声が小さくイジケている
11.なんでもないことにキズつく
12.他人にシットする
13.目が輝いていない
14.いつも口がへの字の形をしている
15.責任転嫁がうまい
16.他人をうらやむ
17.悲観的に物事を考える
18.問題意識を持っていない
19.他人につくさない
20.他人を信じない
21.人生においても仕事においても意欲がない
22.謙虚さがなくゴウマンである
23.人のアドバイスや忠告を受け入れない
24.自分が正しいと信じ込んでいる
25.存在自体が周囲を暗くする


容姿が、ブス・ブサイク、ではなく、人の内面の話でしょう。

「勉強・学習」だけでなく、子供たちの成長過程において、
人として重要なことがらがたくさん含まれていると思います。

幸田露伴の「努力論」

幸田露伴は「努力論」の中で、おおよそこう言っている。



  幸運に出あう人は、いかなる心がけをもっているか。
 
  多くは巡って来た幸運を取り尽くさず、使い果さず
  「惜福」(せきふく)の工夫をしている。

  さらに、「分福」(ぶんぷく)の工夫をして

  自分の得た福を、必ず他者に分かち与えている。

  それだけでなく、「植福」(しょくふく)の工夫をして

  徳を積む手立てを講じている。



これがいわゆる「三福説」というもの。

こうありたいものですねえ。そしてまた、



  注意深き観察者となって、世の中の失敗者、成功者、幸福者、不幸者

  を見て分かることは、幸運を導き出す人は、何ごとによらず

  自己を責める精神に富み、過失、不足、不妙、拙なること、愚なること

  の原因を自分に帰して、決して他人を責めず、運命をとがめず、

  うらまず、非常な痛みを忍んで努力して事にしたがうものである。



とも言っている。う~ん至言ですなぁ。

「他人のせい」「運のせい」「環境のせい」にするのは

【ラク】なんですよね。

だから弱い人は、すぐこの考えを持ってしまう。


「勉強・学習ができる子、できない子」もまったくこれと同じですなぁ。

守・破・離

この考えは、茶道や華道、そしてまた剣道や格闘技などなど
いろんなものに共通しているそうだ。

そしてまた、これは「学習道」というものがあるとすれば、
すごく役に立つ考えであると思う。


川上不白 (1716-1807)
かわかみ ふはく。18世紀の日本の茶人。不白流開祖。

守ハマモル、破ハヤブル、 離ハはなると申候。弟子ニ敎ルハ此守 と申所計也。弟子守ヲ習盡し能成候へバ自然と自身よりヤブル。これ上手の段なり、さて、守るにても片輪、破るにても片輪、この二つを離れて名人なり、前の二つを合して離れてしかも二つを守ること也。 --『不白筆記』(1794年)
守は下手、破は上手、離は名人。 --『茶話集』


守:最初の段階では、学習者は師の教えを正確に模写する。理論についてあれこれ考える前に、その作法に集中する。作法が複数ある場合でも、師の教えをただ忠実に守る。

破:この段階では、学習者は新しいことに手を出す。基本的な実践を身に着けたなら、技術の裏にある原則や理論を学んでいく。また、他の師からも学び、得たものを自身の実践に採り入れていく。

離:この段階では、学習者は、自身の実践を通じて、他者から学んでいく。自身の手法を生み出し、学んだことを自身の環境に適応させていく。


日頃、生徒たちに教えていて、よりよく学習するには
「型」をつくると必要があるといつも思う。


まず「守」の段階で、勉強する方法・やり方である「型」を徹底的に叩き込む。
ノートの作り方、問題への取り組み方、テストの受け方・・・などなど。
これを確立しておけば、年齢が上がっても自ら進んで勉強するのではないか。
土台がしっかりしていれば。

逆に言うと、「型」が備わっていない者は、学習する必要に迫られたとき、
方法がわからないのではないか。

「褒めて伸ばす」

「先生~、ウチの子、褒められると伸びるタイプなんです~!」


いやいやいやいや(笑)

たとえそうだとしても、他人に

話すことではないし
要求することでもないし
同意を求めるものでもないと思いますよ?

このようなことを言う親を持つ子は

「勉強できない」子が多い、という現実。
そして、その親は普段、あまり「褒めていない」という現実。

そしてまた、教育界でも「褒めて伸ばす」ということが
まことしやかに言われていますね。


確かに「褒められて伸びる」タイプの子はいます。
反対に「叱られて伸びる」タイプの子もいます。

そしてまた、これが10か0か、ということではなく、
ケースバイケース、そしてバランスがだいじなんです。

見極めが重要なのです。ここが腕の見せ所なのです。

人間、褒められたら嬉しいのは当たり前。
褒められ続けて、伸びていく子もいます。
しかし、褒められ続けると、慣れてしまって
「な~んだ、この程度で褒められるのか」と
ナメてしまう子もいます。

人間、叱られるとへこむのは当たり前。
へこんだまま、やる気を無くす子もいます。
しかし、そこから次こそは褒められよう
叱られないようにしようと、なにくそ~と
努力する子もいます。

まずは見極め、次にタイミングが重要なのですね。

子供の状態なんて、日ごと、週ごと、月ごと、年ごとに
ころころと変わるもの。
表情・体調・状況などなど、全て考慮にいれて、
そのつどベターな方法を採るのが重要です。

ワンパターンじゃダメなのです。

だから、冒頭の「褒めて伸ばす」というのは
1つの方法に過ぎず、方程式の答みたいに、
「これしかない!」というものではないんです。

そして、「褒める」というのも難しい側面があって、
無理矢理にに褒めると、

「なんだ、折角叱ってやったのに・・・」
という感情は持つことが少ないのとは反対に、

「なんだ、折角褒めてやったのに・・・」
という感情を持つことが人間にはあるのですね。
特に我が子だと、そうなりがちです(笑)

そこで、
「もう二度と褒めてやるもんか」
という、愚かな結論を出すことがあるのです。


やはり、「褒める」だけではダメで、
「褒める」「叱る」のバランスが重要なのです。