豊中市庄内の塾、佑学塾、塾長のブログ  -50ページ目
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「やればできる」

「ウチの子、やればできる子なんです~」


あたりまえです(笑)

勉強すれば、ある程度はできるようになる子が大半です。


「やればできる」⇒裏 「やらないので、できない」 
        ⇒対偶 「できないのは、やってないから」


こんな台詞は、やることやってから、または

親が子に、やらなアカンことやらせてから、言うべきでしょうね。


まあこのような台詞を言う親の子は、

「やったことないから、できるかどうかわからない」

という傾向が強いです。


これは、いわば「不戦敗」の状態。

それ故、「できない」と決まったわけではないので、プライドだけは保たれる。

しかし、この状態はいつか負けることを先延ばしにしているだけなので、

延ばせば延ばすほど、取り返しのつかない状況になる。

無論、「やればできる」というのも証明不可。



一所懸命にやれば、それなりの結果はついてくるのになぁ、とよく思います。

なぜ、目先の快楽にすぐに負けてしまうのか。

やっぱり子供は鍛えないとアカン!

不戦敗ばかりに、慣らさせたらアカン!

「のびのび」

子どもにとって、勉強ができる、学力が高い、
というのが「すべてではない」というのを前提で。

よく大人が、世間話などで言います。

「やっぱり子供は、のびのびと育てないと・・・」


【のびのび】を広辞苑で調べると、

おさえられることなく自由であるさま。ゆったりしているさま。
「~と育つ」「~した生活」
とある。

がしかし、よく聞いてみると、どうも「勉強をする」「勉強をさせる」
の対義語として、「のびのび」を使っているフシがある。


少数ではあるが、ほぼ毎日のお稽古事や、習い事・塾をやらされて、
友達とあまり遊べない子はいますよ?

そういう子を想像して、あ~可哀相!それに比べてウチの子は幸せや!
とでも言うのでしょうかね?
そういう親に限って、

自分がラクしたいだけちゃうん?
面倒くさいだけちゃうん?
自分のやりたいこと優先してるだけちゃうん?
ほったらかしにしてるだけちゃうん?

とツッコミをいれたくなる人は少なくない。

躾、子供の教育をあまりしない言い訳として「のびのび」
という言葉を使ったらアカンのでは?


遊びに行って来ま~す!と言って、子供が出て行って、

公園でDSしてるの知ってるんちゃうん?
友達の家でゲームしてるの知ってるんちゃうん?

何が「のびのび」なんでしょうね。

「権利」

教育界(主として公立小・中学校) での、「権利」の

定義として、次のような傾向があるように思われる。

「権利」=「~してもよい」

どういった使われ方をしているかというと、


・授業中に、眠る権利・他のことをする権利

(理由)授業が面白くないから。自分にとっては意味の無い授業だから。

他人に迷惑をかけていないから。先生の授業が下手だから。


・宿題をやらない権利

(理由)宿題は強制だから。やっても意味ないから。

他の子もやっていないから。宿題をする時間がないから。


この論理もまた、子供に阿る大人がひねりだした、珍妙なもの。
「ラク」をしたい大人の「言い訳」の変形バージョン。

このような行為を叱責すれば、子供から、時には親から、
「人権無視」というクレームがつくこともある。
学校の教員も大変だ。
しかし、その行為をそのまま放っておいて、子供が悪い方へ
成長していくのを「見過ごす」のは「人権無視」ではないのだろうか?


このような拡大解釈された「権利」の定義が、はびこる一因
として、1994年に批准した「子どもの権利条約」というのがある。

まず1989年に国連で採択されたのは「児童の権利に関する条約」
というものであり、「子どもの権利条約」という名称ではない。
この点だけでも、怪しい意図が見え隠れする。

そして条約における「児童」とは、餓死する子供、人身売買される
子供、少年兵、ストリートチルドレンなどが念頭に置かれたもの
であり、これらの子供の生存権・生活権を保障しようというのが
条約の趣旨なのである。

そこに自分に都合のよいことを主張する「権利」なんてものは
有る訳が無い。

しかし、首をかしげるような自治体もあって、ある市はご丁寧に
「子どもの権利条例」なんてものを作って、

・ありのままでいる権利
・秘密が侵されない権利
・子どもであることで不当な扱いを受けない権利
・余暇を持つ権利

などという、恣意的に使用すれば、子供がかなりの強者になる ような

権利を保障しているのである。

これでは先生や親の言うことをきくはずがないのではなかろうか?


教育において「権利」とは、親にある「子供に教育を受けさせる義務」
に基づいた、子供が「教育を受ける権利」があるだけで、
それ以上でも以下でもないのではなかろうか。

「個性」

「個性」を広辞苑で調べてみると・・・


個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質


とある。しかし、教育の場で「個性」と言ったとき、

個人の特徴や癖とは違う意味を内包するのではないだろうか?

・他人とは違う「良さ」
・他人に良い影響を与える、他人に素晴らしいと思われる
・結果的に仕事になったり、「食える」ようになる

などではないだろうか?例えば・・・


・数学がめっちゃ得意

・サッカーがめっちゃ上手い

・元気よく笑顔で挨拶ができる

・この子がいるだけで、周りが明るく・楽しくなる


などなど。しかし、「個性」を拡大解釈し、

え~っ!と言いたくなるようなことを言う大人がたまにいる。


「ウチの子はゲームが大好きなんです!それが個性なんです!」

「ウチの子、鉛筆の持ち方がヘンなんですが・・・それも個性ですよね?」
「ウチの子は勉強があまり出来なくて・・・でもまあそれも個性ですから・・・」


違うのではないだろうか?

それはただの良くない癖であったり、躾をされていなかったり、

良くない特徴であったり、ただそれだけでは?

じゃあ、結果的に、ニートも個性? イジメ・イジメラレも個性?

罪を犯すのも個性?





このような「個性」という使い方をする大人の思考回路を想像するに・・・


一応、それではアカンなぁと自覚はしている
 
        ↓

でもゲームしてたら、放っておいてもいいし、ラク
躾や勉強させたりすんのは、メンドクサイ

        ↓

これも「個性」なんだ~と逃げる




「個性」とはこのようなエクスキューズ(言い訳)のために使われるべきものではない。


「個性」=良いモノ、素晴らしいモノを内包したもの


そうでないもの=悪い癖、悪い特徴


と峻別すべきだと思う。


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