どぅばの倉庫 -8ページ目

どぅばの倉庫

煩悩廃棄物倉庫

「ねえ、ちゃんとした先生のところに通わせた方がいいかしら」

 ケースを開け、私をしげしげと見ていた母親が、そんなことを言った。あの子はもう寝ている。父親は新聞を読んでいたが、顔を上げた。

「その方がいいかな。あんなにうまくなるなんて思わなかったよ」

 あの子は毎日私を弾いた。小さな体で一生懸命弾いていた。私は他の人を知らないので、彼の上達が早いのかどうかはわからない。けれど、彼はたしかにうまくなっていた。時々美しい音色が出る。その回数は少しずつ増え、だんだんと長くなってゆく。彼にもそれがわかるようで、飽きることなく練習していた。

 一人で進むのは難しい。あの子は楽譜の読み方を覚え、それと私が出す音だけを頼りに手探りで進んでいた。先生か。うまく導く人間がいれば、きっと上達は早くなるだろう。ただ、私は少し残念だった。あの子と私、2人だけの時間が減ってしまうのが惜しいと思った。



「大人用のバイオリンですね」

 先生はまず、そう言った。

「やっぱりこれくらいのお子さんには、子供用の方がいいですよ。こちらを使ってください」
「そうですか……」

 母親は困ったような顔をした。

「とりあえず、弾いてみてくれるかな。どこまでいってるの?」
「えっと、この曲……」
「あら、三ヶ月でしょ? ずいぶん進んでるのね」

 感心している先生に、その曲を聴かせた。私は不安だった。子供用のバイオリンに換えるとなると、私はどうなるのだろう。彼が大人になるまでケースの中だろうか。もしかしたら、捨てられてしまうかもしれない。
 不安な音が出た。彼もまた不安がっていたのだ。

「……すごいわ……」

 それでも先生は、そうつぶやいた。



「お母さん。ぼく先生に習うのやだ」

 家に帰って彼はすぐ私を取り出し、音を合わせながら言った。

「どうして? 優しそうな先生だったじゃない。才能があるってほめてくれたし」
「だってぼく。このバイオリンじゃないとやだもん」

 涙声だった。不思議な思いで私の胸はつまった。幸せなような。せつないような。それから彼は、先生のところで弾いたのと同じ曲を弾いた。音色はさっきとは違っていた。それは自分でも初めて聴く音で、私はこんな音も出せたのだな、と思った。
「うわー。バイオリンだー! 本物だー!」

 ケースが開いた。私を見下ろしていたのは、小さな男の子の本当に嬉しそうな顔だった。

 ある日、父のもとを男の子を連れた女性が訪ねてきた。お客さんのようだったけど、父の様子がいつもと違った。ケース越しに聞こえた会話は、どうやら私を売ってしまうような内容だった。いや、お金はいらないと言っていたから、私をただで引き取ってもらおうということだろう。そんなのは嫌だ、と叫ぼうとしたとたん、男の子がケースを開けた。

「本当、素敵ねえ」

 きれいな女の人が私をのぞきこんだ。あ、と思った。もしかしたら父は、この人のために私を作ったのではないか。
 男の子が頭を動かして、私を色々な角度からながめる。しかしケースから出そうとはしなかった。さわっていいのだろうかと心配そうな顔をして、手を出したりひっこめたりしている。かわいいなあ、と思った。

 結局、私はこの子にもらわれていった。どこにでもあるような失恋の話が、いま本当の終わりを告げた。



 雑音、騒音としかいいようのないひどい音が私から出た。男の子はバイオリンの基礎の本の、正しい弓の持ち方が書いてあるページを必死になって見ている。

「ねえ、松ヤニをぬるといい音になるって書いてあるわよ」

 母親がそんなことを言っていた。
 私は思わず笑った。これが松ヤニだけでいい音になったら面白い。松ヤニが弓にたっぷりぬられ、またひどい音が出た。私はおかしくてならなかった。

 美しい音色を奏でたいと思っていた。楽器として生まれたら当然のことだろう。下手な人間に弾かれたら腹が立つものだと思っていた。
 けれど私は、自分から出る騒音を楽しんでいた。母親も楽しそうに見ている。男の子は一生懸命ソラシドレミファソを繰り返していた。一瞬、騒音がバイオリンの音色になった。どきっとしたが、すぐまた騒音に戻った。もしかしたらこの子は、うまくなるかもしれない。私は男の子の顔を見た。必死になるあまりあごを押しつけすぎて、顔が歪んでいた。私はまた笑った。

「不思議だなあ」

 父親が笑いながら言っていた。

「初心者のバイオリンて、普通近くで聴くのは拷問みたいなもんなのになあ。なんだか楽しいよ」


 私の妹達は、それなりによく売れていた。それは、父の作るバイオリンが特別素晴らしかったというわけではなく、単に「安い」からだった。
 父は優れた職人ではなかった。いや、安く手に入る材料でそこそこの音を奏でるバイオリンを作るという点では、ある意味他の誰よりも優れた職人だったかもしれない。ただ、最高級の材料を使い、父の最大限の技術をもって作られたバイオリンは、お世辞にも値段相応の音を奏でるとは言えなかった。私を除いては。

 自分の最高傑作ともいえる私を父は、大切にしてはくれなかった。もちろん、乱暴に扱われるわけではなく、ケースも手に入る中では最上級のものを準備してくれた。ただ、父が私をケースから出すときは、いつも私を壊すつもりでいた。結局は壊すことができず、私の前で酒を飲み、私に昔話を聞かせるのだ。

 バイオリン職人として独り立ちした頃の父は、他の職人同様、材料を吟味し、技術を磨き、より素晴らしいバイオリンを作ることに人生をかけていた。そして、自分の納得できる一本が作れた時こそ、幼馴染だった女性にプレゼントして、プロポーズするつもりだった。しかし、私の材料が手に入った頃、彼女は他の男性との結婚を決めてしまった。

「それなら結婚祝いに…と、当時はそう思ってお前を作ったつもりだったが、実際は、あわよくば彼女を奪い返そうと考えていたようだ。まぁ、結局は式にすら間に合わず、遠くの町に行ってしまったよ」

 私を作った後、父はもう高級なバイオリンを作らなくなった。

「なに、どこにでもあるような失恋の話さ…」

 まるで私の相槌が聞こえているかのように、父は私に何度も同じ話をする。それは決まって、父にとって何かしらの嫌なことがあった日の夜の出来事だった。
 父の最高傑作のバイオリンとして生まれた私は、結局このまま、父が死ぬまでバイオリンとしては生きられないのだろう。それは私にとって不幸なことなのかもしれない。でも、このままずっと父と一緒にいれるならそれでもいいと思った。