軽い練習の後、彼は私を持ったまま、難しい顔で机の上に広げた本を見ていた。
「もう練習終わり? あら、何見てるの」
奥さんがドアからのぞいていた。
「こないだの演奏会の評が載ってた」
彼も今は立派なバイオリニストだ。世界的に有名、というわけでもないが、ファンは多いようだった。
「観衆の心を浮き立たせるここまでの表現力がありながら、今ひとつ深さに欠けるのが惜しい。もう一皮むければ……だって。深さって何だろうね」
「私はそのままでいいと思うけど」
奥さんが言った。私もそう思ったが、同じ意見なのは少ししゃくにさわった。深さ。どうしたら深さが出せるのだろう。
「そういえば、前にも言われたことがあった。バイオリンはすすり泣く楽器だが、お前のバイオリンは泣いてないってさ」
なんとなく、どきりとした。
「泣かせたいの?」
「いや、それだったらこのままでいいよ。こいつにはいつでも笑っててほしいんだ」
奥さんが吹き出した。
「私にもたまにはそういうこと言ってよ」
「それはもう、ハハハ」
彼はごまかすように笑った。
彼は色々なところに行く。私はいつも一緒だ。奥さんは家にいる。
くだらないと思いながらも、それが嬉しかった。私の方が彼に近い。そう思うことで、私は少しずつ奥さんを許す気持ちになった。今はもう、奥さんが目の前で聴いていても、変な音を出したりはしない。そう思っていた。
けれどその日、彼が奥さんの前で一曲弾いた後、奥さんは少し笑って立ち上がった。
「やっぱり私はいない方がいいみたい。音がいつもと違うもの」
「なんだ、まだそんなこと言ってるのか。同じだよ」
「いいのいいの」
奥さんはちらっと私を見て、部屋を出ていった。その目を見て、私は初めて気づいた。
私だけではなかった。奥さんも私に嫉妬していたのだ。たしかに音は完全にいつもと同じではなかったかもしれないけど、違うように聞こえるのは奥さんの嫉妬心のせいだ。
お互い嫉妬し合っていたのだ。そう思い、私は喜んだ。奇妙な喜びだった。
地域の楽団に入団し、学校でもオーケストラに入った。ソロを任されることも多かった。そしてついに、最年少でコンマスに抜擢された。
その日、ケースが開くと、見たことのない女の子が彼と一緒に私をのぞきこんでいた。彼と同じ年頃。同じ学校の生徒だろうか。しかしオーケストラの子なら見たことがあるはずだ。
「それじゃ、弾くよ」
彼は私を肩に乗せて言い、それからふざけたように付け加えた。
「君のために」
私の心は真っ黒にざわめいた。自分の体がきしむようだった。女の子は笑いながら拍手している。
ひどい演奏になった。女の子は彼のいつもの演奏を知っているらしく、不思議そうな顔をした。彼はもっと不思議そうな顔で私をながめた。情けない思いでいっぱいになったが、どうにもならなかった。
「おかしいなあ。ごめん」
「ううん、いいよいいよ」
女の子は手を振り、私をちょっと見た。その顔がなぜか、私を笑っているように見えた。
彼女はたびたび家に来るようになった。たまに彼は私を取り出し、彼女の前で弾いた。そのたびに私はひどい音を出して彼を困らせたが、出そうと思って出しているわけではなかった。
彼に悪いと思いながらも、彼女を見るたびに私の心はきしんだ。それはどうしても止められなかった。
彼はあの女の子と長い交際の末、とうとう結婚した。バイオリンで身を立てるめどがついたのだそうだ。彼女は彼の奥さんになった。
どうしようもないことだとわかってはいたが、私は寂しくてならなかった。どんな曲を奏でても、ため息が混じった。
「おかしいなあ」
彼は首をかしげ、スランプかな、などと言っていた。心が通じ合っていると思っていたのに、彼はこの件に関してはまったく私の気持ちをわかってくれなかった。むしろ奥さんの方がわかっているようで、
「私、なるべくそのバイオリンの目に入らないところにいるわね」
などと冗談めかして言っていた。そして実際、私のいるところには現れなくなった。
奥さんの姿が見えないだけで、私は少し落ち着いた。そしてようやく決心した。いつまでもこんなふうではいけない。彼のために、いい音を出さなくては。
少しずつ、音は元に戻っていった。
「ああよかった」
彼が私に笑いかける。私もほっとした。奥さんのことを考えても、あまり心は痛まなくなっていた。彼と私はお互いなくてはならない存在で、誰も私たちの間には入れないのだ。彼が私を弾いている時だけは、そう思えた。いつまでもいつまでも弾き続けてほしかった。
けれどももちろん、そうはいかない。ある程度の時間が過ぎれば、私はケースに入れられて、闇の中に一人になる。今までだってそうだったけど、今までとは意味が違う。私をケースに入れた彼は、奥さんのところに行くのだ。奥さんはどんな顔で彼を迎えるのだろう。そして彼は……
この苦しみにもいずれ慣れるだろうと思いながら、それでもやはり苦しかった。
その日、ケースが開くと、見たことのない女の子が彼と一緒に私をのぞきこんでいた。彼と同じ年頃。同じ学校の生徒だろうか。しかしオーケストラの子なら見たことがあるはずだ。
「それじゃ、弾くよ」
彼は私を肩に乗せて言い、それからふざけたように付け加えた。
「君のために」
私の心は真っ黒にざわめいた。自分の体がきしむようだった。女の子は笑いながら拍手している。
ひどい演奏になった。女の子は彼のいつもの演奏を知っているらしく、不思議そうな顔をした。彼はもっと不思議そうな顔で私をながめた。情けない思いでいっぱいになったが、どうにもならなかった。
「おかしいなあ。ごめん」
「ううん、いいよいいよ」
女の子は手を振り、私をちょっと見た。その顔がなぜか、私を笑っているように見えた。
彼女はたびたび家に来るようになった。たまに彼は私を取り出し、彼女の前で弾いた。そのたびに私はひどい音を出して彼を困らせたが、出そうと思って出しているわけではなかった。
彼に悪いと思いながらも、彼女を見るたびに私の心はきしんだ。それはどうしても止められなかった。
彼はあの女の子と長い交際の末、とうとう結婚した。バイオリンで身を立てるめどがついたのだそうだ。彼女は彼の奥さんになった。
どうしようもないことだとわかってはいたが、私は寂しくてならなかった。どんな曲を奏でても、ため息が混じった。
「おかしいなあ」
彼は首をかしげ、スランプかな、などと言っていた。心が通じ合っていると思っていたのに、彼はこの件に関してはまったく私の気持ちをわかってくれなかった。むしろ奥さんの方がわかっているようで、
「私、なるべくそのバイオリンの目に入らないところにいるわね」
などと冗談めかして言っていた。そして実際、私のいるところには現れなくなった。
奥さんの姿が見えないだけで、私は少し落ち着いた。そしてようやく決心した。いつまでもこんなふうではいけない。彼のために、いい音を出さなくては。
少しずつ、音は元に戻っていった。
「ああよかった」
彼が私に笑いかける。私もほっとした。奥さんのことを考えても、あまり心は痛まなくなっていた。彼と私はお互いなくてはならない存在で、誰も私たちの間には入れないのだ。彼が私を弾いている時だけは、そう思えた。いつまでもいつまでも弾き続けてほしかった。
けれどももちろん、そうはいかない。ある程度の時間が過ぎれば、私はケースに入れられて、闇の中に一人になる。今までだってそうだったけど、今までとは意味が違う。私をケースに入れた彼は、奥さんのところに行くのだ。奥さんはどんな顔で彼を迎えるのだろう。そして彼は……
この苦しみにもいずれ慣れるだろうと思いながら、それでもやはり苦しかった。
結局彼はあの先生のところに通うことになった。ことの顛末を私は彼自身から聞いた。
「お母さんがね。君じゃなきゃやだから行かないって僕が言ったのを先生に伝えたんだよ。そしたら先生がね、君でいいから来てくださいって言ったんだって」
練習の前や後、まわりに誰もいない時、彼は私に話しかけるようになっていた。弾かれるのも楽しかったが、私はその時間も大好きだった。
発表会がせまっていた。彼もそれに出ることになっている。彼はその不安を私にたびたび訴えた。
「上手な人と比べられるんだって」
「間違ったらどうしよう」
「知らない人がたくさん見に来るんだよ」
本番当日、控室で彼は、そわそわと心のこもらない弾き方をした。私は気の抜けた音を出した。彼はそれに気づき、音に耳を傾けながら弾く。しだいに彼は不安を忘れ、私とひとつになって音を奏でるようになってゆく。
「さ、次よ」
「はい」
舞台の袖に彼は立った。そろそろ出番だ。
「人があんなにいっぱいいるよ」
私にささやきかけた彼の声は笑っていた。緊張の色は見られない。私がいれば大丈夫だと思っている、そんな気がした。ふつふつと喜びがわいてくる。
舞台に出る。ライトがまぶしかった。そして拍手。私を持つ彼の手の力が、いつもより強いようだった。一つ深呼吸をしたのがわかった。大丈夫、私がいるのだから。私は彼の手を強く握り返した、つもりになった。
弾き始めた瞬間、舞台に上がった彼の緊張は消えた。いつもの、彼と私だけの時間がやってくる。けれどもここは舞台の上で、その音色はたくさんの聴衆に広がってゆく。彼と二人きりでいながらも、演奏を聴くたくさんの人々の驚きや喜びが私に伝わってくるのだった。
すさまじい拍手。彼は頭を下げ、急いで舞台袖にひっこんだ。
「すごい。すごいね」
興奮して私に言う。何がすごいのかは言わなかった。多分この状況すべてについて、すごいと言っているのだろう。私も同感だった。拍手はなかなか鳴りやまなかった。
「お母さんがね。君じゃなきゃやだから行かないって僕が言ったのを先生に伝えたんだよ。そしたら先生がね、君でいいから来てくださいって言ったんだって」
練習の前や後、まわりに誰もいない時、彼は私に話しかけるようになっていた。弾かれるのも楽しかったが、私はその時間も大好きだった。
発表会がせまっていた。彼もそれに出ることになっている。彼はその不安を私にたびたび訴えた。
「上手な人と比べられるんだって」
「間違ったらどうしよう」
「知らない人がたくさん見に来るんだよ」
本番当日、控室で彼は、そわそわと心のこもらない弾き方をした。私は気の抜けた音を出した。彼はそれに気づき、音に耳を傾けながら弾く。しだいに彼は不安を忘れ、私とひとつになって音を奏でるようになってゆく。
「さ、次よ」
「はい」
舞台の袖に彼は立った。そろそろ出番だ。
「人があんなにいっぱいいるよ」
私にささやきかけた彼の声は笑っていた。緊張の色は見られない。私がいれば大丈夫だと思っている、そんな気がした。ふつふつと喜びがわいてくる。
舞台に出る。ライトがまぶしかった。そして拍手。私を持つ彼の手の力が、いつもより強いようだった。一つ深呼吸をしたのがわかった。大丈夫、私がいるのだから。私は彼の手を強く握り返した、つもりになった。
弾き始めた瞬間、舞台に上がった彼の緊張は消えた。いつもの、彼と私だけの時間がやってくる。けれどもここは舞台の上で、その音色はたくさんの聴衆に広がってゆく。彼と二人きりでいながらも、演奏を聴くたくさんの人々の驚きや喜びが私に伝わってくるのだった。
すさまじい拍手。彼は頭を下げ、急いで舞台袖にひっこんだ。
「すごい。すごいね」
興奮して私に言う。何がすごいのかは言わなかった。多分この状況すべてについて、すごいと言っているのだろう。私も同感だった。拍手はなかなか鳴りやまなかった。