こんにちは!
渉外でベネッセ担当を務めている高橋です。
最近はHCAPの渉外活動やベネッセさまとの企画関連のタスク
駒場祭の準備・・・などで多忙を極めています・・。
もっと体力とキャパシティがほしいなと思う今日この頃です。
それはさておき、今回は未曾有の大震災がおこった3月11日にまつわることを書いていきたいと思います。
前回の記事にも書きましたがわたしは東北は仙台の出身です。
ですからよく3月11日は大変だったでしょう?と聞かれるのですが、
実はわたしはちょうどその日東京にいたんです。
3月10日がちょうど合格発表で
それを見に行くために上京して
その足で家探しをしていました。
駒場キャンパスでそういう地方出身者のための相談会が開かれていたので
私は父と一緒にそれに参加していたんですね。
わりと新しい建物の中にいたのですが
急に今までに感じたことのないくらいの大きな横揺れを感じました。
わたしの地元である宮城では地震はわりと起こりやすくて
今までに震度5くらいまでなら体感したことがありました。
だから地震の揺れには慣れている方だと思うのですが
そんなわたしでも「ただごとじゃないな」と思わせるような大きな揺れでした。
慌てて外にでて揺れが収まってからしばらくして
携帯で震源地を確認すると
震源地は宮城県沖になっていました。
東京であの揺れ。じゃあ仙台は・・・
と考えると頭が真っ白になりました。
仙台には母と妹、そして今回津波の被害をもろに受けた石巻には祖母がいたので
彼らの安否がとても心配でした。
母と妹には地震のあとすぐメールで連絡がついてひとまず安心でしたが、
石巻の祖母とはそのあと何日か連絡が取れない状態が続きました。
震災後わたしは仙台へ帰る父と別れ
ひとり東京の親戚の家へおいてもらうことになりました。
震災がおきてから4、5日後に祖母が近くの小高い山に避難していたことがわかり本当にほっとしたのを覚えています。
10日後くらいにやっと東京から仙台に向かう高速バスが運行開始し
わたしは仙台へ帰りました。
仙台を離れたのはだいたい2週間くらいのことでしたが
それ以上に長く感じた時間でした。
仙台の中心部や実家、高校の周辺はがらっと変わっていたわけではありませんでしたが
人通りも少なく、活気がなく、街全体がなんとなくしょんぼりしている印象を受けました。
あれから大学入学のために東京に移り
ゴールデンウィーク、夏休み、秋休みと何回か仙台に帰りましたが
帰るたびにわたしの知っている活気ある仙台に戻っていっているような気がします。
夏休みくらいからは震災があったということを忘れさせてくれるくらい
街が元気になっていて
人間って案外強いんだな、と思い心が温まりました。
その一方でやはり失ったものの大きさに気付いたこともありました。
9月に東大の学生団体が運営しているボランティアに参加して
石巻に行ってきたのですが、
わたしの馴染みある場所が全くなくなっていて
なんともいわれぬ虚無感、無力感に襲われました。
そんな石巻にもそれでもそこに人はいて
何事にもめげずに、希望を持って頑張っている人たちがいました。
今、東京にいて
大学にいって、授業をうけて、サークルにいって、友達と遊んで・・・
という毎日をすごしていると
3月11日にあんなことが起こったなんて夢のような気がしてきてしまします。
でも今このブログを書いていて
あらためて3・11のことは忘れてはいけないと思いました。
私が見て、聞いて、体験してきたことは忘れてはいけないし
たぶん、忘れられないのでしょう。
あの日とそしてそのあとの出来事が
わたしにどう影響したか、そして今後どうかかわっていくかはまだわかりません。
だけど、何らかの大きな影響を与えたということは事実なんだと思います。
・・・長々と失礼しました。
これがわたしが3・11のとき何をしていてそしてどう思ったか、です。
あまりまとまっていませんが読んでいただけたなら幸いです(*^_^*)
最後まで読んでくださりありがとうございます。
高橋