3.11のエピソード | HCAP東京大学運営委員会(HCAP Tokyo)

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今日で震災からちょうど8ヶ月。私は地震が起きた日、御茶ノ水の予備校にいました。3月17日に、東大の帰国生入試の面接を控え、いよいよ受験生活もあと1週間で終わりという矢先のことでした。
ドン、と下から突き上げるような衝撃の後、建物全体を揺さぶるような、立っていられないほどの揺れが続き、とっさに机の下に隠れました。中越地震のときに感じた震度4よりも大きいぞ、と直感的に思い、その後何度も来る余震も本当に怖くて、周囲にいた受験仲間とずっと励ましあっていました。しばらく余震は続き、車酔いのような症状が出たとき、これは本当に未曾有の災害だと感じました。
当時私の家族はまだアメリカに住んでおり、両親や親戚に連絡を取ろうとしても、ずっと電話がつながらない状態が続き、とても不安でした。しかし、電力はあったので、予備校にあるパソコンからアメリカにメールを出して、両親に様子を伝えていました。私が身を寄せていた祖父母の家は埼玉にあったので、御茶ノ水から電車で帰ることはできず、やむなく予備校で一晩過ごしました。その夜は、近所のコンビニから食べ物の差し入れが来たり、私のほかにも予備校に泊まった友人たちもおり、心強かったです。お菓子を食べながらトランプをして、地震の夜をともに過ごした「震友」たちには、何か特別な思いがあるような気がします。
その後も3月中は混乱が続きました。東大の面接は予定通りに行われることになり、早朝に埼玉から電車で向かおうとすると余震があった場合間に合わなくなるかもしれないという懸念から、前日から一人で都内のホテルに泊まって面接に備えました。それでも、楽しみにしていた入学式は行われず、とても残念でした。
今でも、誰かが教室の長机などを揺らしているのを感じると、地震ではないかと疑ってしまい、心臓がばくばくします。また、今この瞬間に地震が起きたらどうしよう、と漠然とした不安を常に抱いています。あの時の恐怖や不安は忘れることができません。
ただ、私が気になっているのは、「天災」と「人災」の混同と、震災に対して「ポスト3.11」「災前・災後」のように歴史的評価を下してしまうこと。
歴史的意味を持っているかどうかは、何百年後かになってみないとわからない。「私たちの贅沢な生活に天罰が下ったのだ」という、神話がかった分析は冷静さを欠いています。天罰が下されれば、それで終わりになってしまいます。震災によって明らかになった問題を、解決しようと前進できないからです。同じ間違いを繰り返してしまいます。反省が応用できません。
帰国子女としての感想になるのですが、この震災で「略奪などをしない日本人の対応はすばらしかった」という賞賛がある一方で、日本も海外から様々な支援を得ました。これによって、私たちが内向きの「団結」を目指したり、~~国や~~地方の国民・県民であると主張する以上に、人類であるということに気づいてほしいなぁと思っています。
私も東北にボランティアに行って、被害の大きさや厳しさを見てきました。しかし、それでも私はあえてこの地震・津波・原発事故を、私たちが再考すべき事柄に気づかせてくれ、より良い社会を築くためのきっかけだととらえたいと思います。