3.11に際して
どうもギャグセンスに定評のある佐野です…と言いたいところですが期待してた皆さんごめんなさい、別人です。前回アニメオタク宣言をかましてしまった渉外の柿沼です。ほらそこがっかりしない!
順番変更で本日は私が震災について語らせていただきたいと思います。口調変わります。
自らの無頓着を公の場で晒すのは少々気が引けるが、正直なところ、私はあの震災が日本に与えた影響の大きさというものが、なかなか理解できなかった。震災時、私は当時通っていた高校の職員室にいて、そのまま体育館へ避難、乾パンを友に一夜を過ごすこととなったが、その時にはここまで被害が大きいものだとは予想だにつかなかった。
一万を超える死者、行方不明者数。原発事故。
新聞の見出しがセンセーショナルに騒ぎ立てるのを読んでさえ、私には実感が湧かなかった。リモコンのボタンをぽちりと押してTVのニュースを消せば、私の周りの世界は、ドラスティックな変化一つなく、食べて、寝て、起きるの日常が続いた。
今でも、いくら原発が大変だと言われても、日本経済が壊滅的だと言われても、ことの深刻さは今一つぴんとこない。
ただし、それは総体としての話だ。原発が日本をどうの経済をどうのという対局的な話。
勿論そうしたことを市民間で議論することは大切なのだろうが、純粋に私にずぶりと届くのは、もっと個々のレベルまで踏み込んだ、新聞などに載る被災者の方々の生の声だ。正確には声ではなく(大抵の場合レポートされる「声」というのは実際のところを耐え忍ぶものだ)例えばその人の体験を淡々と綴ったものだったり、一枚の写真だったり。失礼なことかもしれないが、私にとっては解釈の余地のない何万の数字よりも、ひとつの光景から想像した物語の方が、ずっと重たく感じられる。
そんな私が震災、原発関連のことで常常思うのは、過剰にも思える人々の恐怖や拒否反応だ。上記のとおり私はあまりに危険性や自体の深刻さに対し無頓着すぎる感があるため、胸を張って言えないのだが、農産物や人の行き来に敏感すぎる人々が多い気がする。それ自体は、自分で情報を判断し、防衛策を講じているがゆえであるため、安易に批判すべきことではないと思うのだが、その際、自己本位に、他者の気持ちを何も考えない言動をされると、何とも落ち着かない。
私は会議での議論の仕方などでも何度かHCAPメンバーと意見を交わしたことがあるのだが、何事につけても(例えば相手に反論する場合などでも)、「相手の心中に思いをいたらせつつ我が道を行け」ればと考えている。その人なりの基準や考え方があるのはいいが、自分の思いを通すときに、誰かを傷つけはしないか。如何にすれば傷つけずに済むか。小学生が抱くような理想論だ、偽善者だと言われても仕方ないかもしれないが、私はそんな幼稚な偽善でも、持たないよりはましだと思う。
話がそれてしまったが、要は風評被害反対!ということに落ち着くのだろうか。
……という感じで。ではでは乱文失礼しました!柿沼でした。