こんばんは。ブログの執筆の順番も2周目に入りました。再びお世話になります、HCAP第6期渉内担当の大場肇です。今回のリレーブログのテーマは「自分から見た3月11日」ということで、自分の実体験も交えながら簡単に書きたいと思います。
この前の自己紹介でも書いた通り、僕の実家は宮城にあります。
そしてあの日、僕は自宅で被災しました。
ちょうど合格発表を東京で直接見て、その日のうちに帰宅し、大学生活へ向けての様々な計画やビジョンを膨らませている最中でした。
一段落してDVDを見ていた。弟がそばで宿題をしている。何の変哲もない、普通の午後の景色。
しかし
突然鳴り出す食器。揺れだす電灯の笠。
ドンという衝撃。家じゅうがものすごい音を立ててきしみだす。
弟に叫ぶ。外に出ろ。戸が開かない。ようやくこじ開けるように外にでる。
立っていられない。電線が目の前でブチブチちぎれていく。
弟がひたすら僕の腕にしがみつく。まだ揺れはやまない。
縁側からかろうじて見える家の中。すべてが倒れていく。すべてが飛び散っていく・・・
・・・・・・・
途方に暮れる僕たち。すべてが横倒しになった家の中。
遠くで鳴り出すサイレン。つながらない携帯電話。
庭に転がる石灯篭。不気味な静寂。
1分前までそこにあったはずの景色が、もうそこには無かった。
車を飛ばして帰宅してきた祖父。降り出す雪。
迫る夕闇。漏れたガソリンの強烈な匂い。
身を刺すような寒さ。
・・・・・・・
あれから半年が立ちました。テレビやメディアは、時々忘れたように放送するけれど、現地の状況は何一つ変わっていない。
「震災から半年」じゃないんです。
「震災が始まって半年」なんです。
まだ何も終わっていない。
全壊した、祖父が経営する店の前で言葉を失った。
無残に無数のヒビが入り「立ち入り禁止」の札が掲げられた高校の校舎の前で立ち尽くした。
ボランティアの事務所で友達と再会して、互いの無事を心から喜んだ。
ロウソクのほのかな明かりの中で、たった一つのカップラーメンを兄妹3人で分け合った。
うず高く積まれた瓦礫の山と、家との間を麻袋を持って何往復もした。
いつタンクローリーが来るか分からないガソリンスタンドに、少しのガソリンの為に寒さに凍えながら、夜通し並んだ。
たった1本の電話をかけるために、中継車の列に3時間並んだ。
暖房がない部屋の中で、毛布とコートにくるまり、震えながら眠ろうとした。
でも寝れない。
緊急地震速報が鳴り響いて、飛び起きる。それの繰り返し。
・・・・・・・・
あの1週間は、到底ここに書ききれるものではない。
でもあの震災を経て、そして、震災で大変な中で自分をこうして東京に送り出してくれた家族の姿をバスの窓から見て。
自分のすべきことは、1つだと感じました。
「かならず東北をこの手で復興させる」
だから、一刻も早く、復興の最前線に行きたい。
大学生活なんか正直早く飛び越えて、復興庁のポストについて、考えられうるすべてのことを、自分にできる全てを注ぎ込んで、東北を必ず元に戻したい。
夏に一度地元に帰り、沿岸部に赴きました。
津波の傷跡がまざまざと残る町。
その中で、建物を半分津波に壊されながらも、懸命に煙突から煙を上げ続けている巨大な製鉄所の姿があった。
それは、「これだけ被害を喰らったけれど、まだ東北はこうして頑張れるんだ」と、僕に語りかけているようでした。
この体験を、出来たら出来るだけ多くの人に伝えていきたい。
そして、風化させないようにしたい。
他のメンバーはどう考えてるかわかんないけど、僕は理念とか軸とか・・・机上のごちゃごちゃした議論より、そんなもの今はかなぐり捨てても、この体験を知ってもらうことを大事にしたい。
ともすれば堂々巡りに陥りがちなMTGを聴きながら、僕が思っていることです(笑)
・・・あまりブログっぽくなくなってきてしまったし、書くのが止まらなくなりそうなので、今回はこの辺で。
思いの丈は、またいつか吐き出したいと思います。
次はわれらが渉外代表・佐野かな?
最近さらにギャグのあとの微妙な空気に拍車がかかってきた彼の文章を、どうぞご覧あれ(^O^)
ではでは☆