ことのは | HCAP東京大学運営委員会(HCAP Tokyo)

HCAP東京大学運営委員会(HCAP Tokyo)

HCAP東京大学運営委員会の現役メンバーが更新する公式ブログです。

こんにちは、上野です。
ブログもほぼ毎日更新するようになってから2ヶ月ほどが経ちました。これは、更新している私たちにとっても、非常に有意義な経験です。第一に、なかなか自分の考えていることをこうして文章に残す機会というのはないものですし、第二に、4期メンバー同士でもお互いについて新たな発見があります。内容が新鮮ということもありますが、それぞれの記事に、想像以上に個性がにじみでているなぁというのが私の感想で、おそらく他にもそう感じている人はいると思います。

私は国語という科目がすごく苦手でした。なんというか、科目としての存在意義がよく分からなかったんです。日本語で生活しているから日本語で書いてある内容が理解できてしかるべきなのに、そこには「正答」「誤答」が存在しており、点数の差も生まれる。その状況がよく理解できず、長い間きちんととりくんでこなかったように思います。初めて科目として勉強できるようになったのは、高校三年生のときです。今でも、「国語とは・現代文とは」について完全に語れる、なんてことは決してないのですが、このころやっと、かつての私の認識は間違っていたんだなーということがぼんやり分かり始めました。

言葉って中継地点なんだと思います。砂時計の真ん中の、くびれたとこのイメージです。広大な言葉にできない感情が、いくつかの音節で表され、そして、その文字列からはあらたな何かが広がっていく。歌詞とか和歌とかを考えると分かりやすいかもしれません。人の心は複雑です。考えることも、感じることも一様ではありません。とりとめのない、まとまりのないその抽象的な感覚を、人は言葉にします。制限――和歌なら文字数などですね――があればあるほど、選びに選んだわずかな言葉でそれを表現しようとします。取捨選択された言葉は、作者によって生み出されたその瞬間はそれ以上でもそれ以下でもありません。しかし、他者によって読まれた途端(一度作り出されてしまえば、もはや作者自身すら他者です)、意味の広がりを持つようになります。言葉そのもののもつ広がりはもちろん、読む人の個人的な経験がそこに影響を与えることすらあります。

こう考えると、記事に個性が宿るのは当然のことと言えますね。誰一人として同じ心をもつ人間なんていないんですから。そして、日本語を理解することと日本語で書かれている内容を理解することとは別のものだということも。文字を文字通りたどることは容易いです。問題は、そこから意味の広がりを感じ取れるかどうか。思考のプロセスを見つけ出すことができるかどうか。そこに、国語という科目の骨格があるような気がします。

では、今日はこの辺で。乱筆失礼致しました。

HCAP4期記録係 上野由加里