松下幸之助(1894-1989)は、日本を代表するエレクトロニクスメーカー、パナソニック株式会社の創業者である。
1918年に、幸之助は23歳の時、パナソニックの前身である松下電器(松下電気器具製作所)を興した。時代の流れを絶妙に捉えつつ、需要家の声に真摯に耳を傾けて、配線器具で始めた事業を、ランプへ、電熱器具へ、ラジオへと、拡大させていった。
創業から14年を経た1932年に、幸之助は覚醒の時を迎える。それは、彼自身が「命知」と呼んだ、産業に従事する者が遂行すべき真の使命の自覚であった。
「事業を通じて貧困を払拭し、社会の繁栄に貢献する」 ― この使命を幸之助は従業員と共有して、事業をさらに発展させていった。
ところが戦争で、使命遂行は中断された。戦時体制によって、日本のあらゆる産業が、軍需一色に染まったのである。
そして1945年に迎えた敗戦のときに、幸之助が目の当たりにしたのは、国土はおろか人心までもが荒廃した祖国の姿であった。
幸之助は産業人の責務として、ただちに日本の復興に乗り出した。と同時に、事業で目指す繁栄の実現を、人間に課せられた使命として捉えて、そのありようを探究しようという活動にも着手した。
これを幸之助は、PHP-Peace and Happiness through Prosperity-と名付けて、研究所を設立して、自らの主張を世に問うべく月刊誌の発行を開始した。
1950年代から1960年代にかけて、いよいよ幸之助が、産業人としての本領を発揮する時代が到来した。
日本が高度経済成長の波に乗る中で、幸之助は家庭電化がもたらす便利で明るい暮らしの効用を説き、各家庭に電化の幸を運ぶ製品を次々と世に送り出していった。
そのまなざしは、日本国内にとどまらず、輸出を通じて、さらには海外各地での現地生産を通じて、世界全体に注がれていった。それは、グローバルな事業活動を展開する今日のパナソニックの礎が築き上げられていく姿でもあった。
1961年に、幸之助は松下電器の社長を退き、会長に就任する。それとともに、活動の幅を大きく広げて、時の首相とテレビ討論を行うなど、日本を代表するオピニオンリーダーとして確たる地位を築くまでになった。
また、PHP研究の深耕によって、思想家としての顔もより鮮明になっていった。これを裏づけるかのように、米国のライフ誌は幸之助を、「Top Industrialist」「Biggest Money Maker」「Philosopher」「Magazine Publisher」「Best Selling Author」という5つの顔を持つ人物である、と評した。
このように事業家を超える存在となった幸之助が思いをめぐらせたのは、日本という国と世界の将来であった。
21世紀の繁栄を担うリーダーを、育成しなければならない。この使命感は憂国の情とともに高まって、1980年に、私財70億円を投じた松下政経塾の設立に至った。
幸之助の追い求めたもの、それは1932年の「命知」に基づく繁栄の実現であった。まず松下電器を率いる事業家として繁栄を目指して、思想をPHP研究で深め、そして政経塾を立ち上げて、国と世界を繁栄に導くリーダーの育成に情熱を注いでいった。
それが幸之助の、94年の生涯であったといえる。
松下 幸之助(1894年 ―1989年)は実業家、発明家、著述家でパナソニックホールディングスを一代で築き上げた経営者で、「経営の神様」といわれた。
人間の生き方について彼は語っている。
「私は、失敗するかもしれないけれども、やってみようというような事は決してしません。絶対に成功するのだということを、確信してやるのです。何が何でもやるのだ、という意気込みでやるのです」