人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 スタンリー・ボールドウィン(1867年― 1947年)は、イギリス政治家実業家貴族である。

 保守党に所属して、挙国一致内閣や保守党政権下で大臣職を歴任した後に、1923年ボナー・ローの退任で代わって保守党党首となって、3度にわたって首相を務めた(在任期間 第1次内閣:1923年 - 1924年、第2次内閣:1924年 - 1929年、第3次内閣:1935年 - 1937年)。

 

 第1次・第2次内閣は保守党単独政権、第3次内閣は挙国一致内閣だった。第3次内閣の前身となる1931年から1935年にかけての、マクドナルド挙国一致内閣においても重要閣僚だった。

 

 1937年に辞職して、ネヴィル・チェンバレンが代わって首相・保守党党首となった。首相退任直後にビュードリーのボールドウィン伯爵に叙され、連合王国貴族に列した。

 

 彼は、1867年に中規模の鋳鉄業者の息子として生まれた。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学んだ後に、 父の会社に入社する。

 

 1908年2月に父が死去して、父が議席を持っていたビュードリー選挙区から保守党庶民院議員となって、政界入りした。

 

 1917年ロイド・ジョージ挙国一致内閣財務担当政務次官英語版)、1921年から商務庁長官に就任する。

 

 1922年ボナー・ローを首相とする保守党単独政権が誕生すると財務大臣に就任して、アメリカと一次大戦の戦債についての交渉にあたった(→ボナー・ロー内閣財務大臣)。

 

 1923年5月にボナー・ローが病気退任した後に、代わって首相に就任した。帝国特恵関税制度の導入を目指して、1923年12月にそれを争点とした総選挙を行ったが、保護貿易への反発から保守党の議席を大きく減らし、1924年1月の新議会で不信任案が決議されて辞職に追い込まれた(→第1次ボールドウィン内閣)。

 

 1924年1月に成立した初の労働党政権の第1次マクドナルド内閣に対しては、ソ連との国交やキャンベル事件をめぐって批判を強め、10月に総選挙に追い込んだ。

 選挙戦中に発覚したジノヴィエフ書簡事件を利用して、労働党とソ連の関係を批判し、総選挙に大勝した。

 

 1924年11月に第2次内閣を組閣。1925年4月に財相チャーチルの主導で金本位制復帰を行ったが、石炭業界の海外販路への大打撃となり、給料削減により1926年ゼネストを誘発した。

 

 強硬姿勢をもってゼネストの鎮圧にあたり、労働組合会議を全面降伏に追い込んだ。外交面では外相A.チェンバレンの主導で1925年ロカルノ条約1928年不戦条約を締結して緊張緩和に努めた。

 

 1926年10月から11月にかけては帝国会議を主催して、バルフォア報告書を発表した。しかし1929年5月の総選挙で労働党に敗れたために、下野を余儀なくされた。

 

 1929年6月に成立した労働党政権の第2次マクドナルド内閣は、同年10月末の世界大恐慌により失業手当カットを巡って閣内・党内分裂する。

 

 緊縮政策を取るマクドナルドは、労働党主流派と袂を分かち、ボールドウィンは国王ジョージ5世の仲介もあって、マクドナルドに協力することを決意した。

 1931年8月に成立したマクドナルド挙国一致内閣に、枢密院議長として入閣する。マクドナルドの下で1931年10月の総選挙に臨み、保守党を中心とする挙国政府派が大勝した。

 

 1932年7月から8月にかけての大英帝国経済会議に、イギリス政府代表として出席して、同年2月に英国議会で可決されていた帝国特恵関税制度を、自治領諸国に認めさせた。

 

 1935年6月7日にマクドナルドが病気退任して、代わって挙国一致内閣の首相に就任した。11月に総選挙に及び、議席を減らすも多数派を維持した。

 

 ナチス政権下のドイツに対しては宥和政策を取り、ドイツ軍ラインラント進駐スペイン内戦に対する軍事介入を回避した。

 1936年12月には、ウォリス・シンプソンとの恋愛問題をめぐって、国王エドワード8世に退位を迫った。1937年5月にネヴィル・チェンバレンに後事を託して首相を退任した。

 

 首相退任直後の1937年6月に連合王国貴族爵位ビュードリーのボールドウィン伯爵に叙されて、貴族院議員となる。1947年に死去した。

 

 スタンリー・ボールドウィン(1867年1947年)はイギリス政治家実業家貴族である。

 保守党に所属して、挙国一致内閣や保守党政権下で大臣職を歴任した後に、1923年ボナー・ローの退任で保守党党首となり、3度にわたって首相を務めた。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「人間、志を立てるのに遅すぎるということはない」