人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 野村 克也(のむら かつや、1935年2020年)は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ監督野球解説者野球評論家である。後妻にタレント野村沙知代がいる。

 

 選手としては、史上2人目・パ・リーグ初の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)

 

 選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算塁打数歴代2位、通算打席数1位(11970打席)

 

 通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠飛)、通算併殺打1位(378併殺打)、最多記録となるベストナインを19回受賞、パリーグ最多記録となる本塁打王を9回獲得、打点王を7回獲得、パリーグ最多記録となる最優秀選手を5回受賞などの記録を持っている。

 

 監督としては1565勝1563敗を記録。このうち「平成」(1989年1月8日 - 2019年4月30日)期間の勝利数1053は、同時代における最多記録である。

 1563敗は歴代最多記録。プロ野球では南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。

 

 晩年の所属事務所はエフエンタープライズで、継子の団野村が運営するKDNスポーツジャパンがマネジメント代行を行っていた。元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督(2012年まで)。

 

「南海選手時代(1959年1月)」

 野球選手としての現役生活は、1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした。

 

 選手引退後は、1990年から1998年までヤクルトスワローズ、1999年から2001年まで阪神タイガース、2003年から2005年まで社会人野球シダックス、2006年から2009年まで、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。

 

 2010年から2012年まで、東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督。2010年から亡くなるまでサンケイスポーツの野球評論家を務めた。また、出身地の京丹後市名誉市民となっている。

 

 通算試合出場数は日本プロ野球歴代2位(実働年数は歴代2位)と、通算の安打本塁打打点塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。

 

 捕手を務めながら通算RCWINでも歴代5位を記録した球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」と自負している。

 

 選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献した。

 

 愛称の「ムース」とはロッキー山脈に生息する「ヘラジカ」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」ことから名づけた。また「和製ベーブ」とも呼ばれた。

 

 生涯で二度結婚しており、2人目の配偶者が野村沙知代(2017年死別)である。沙知代との間に息子・野村克則がいる。前妻との間にも息子が1人いる。継子(沙知代の連れ子)に団野村ケニー野村がいる。

 

 生前に、自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐していた通り、幼少の時から亡くなる直前まで、第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなすなど、仕事に対する執着心は非常に強かった。

 

 現役時代は捕手という負担の大きいポジションで、歴代選手2位の出場数(3,017試合)を記録し、選手兼任監督まで務めており、監督としての試合出場も通算3,204試合と3,000試合の大台に乗せている。

 また、通算打席数(11,970打席)と通算打数(10,472打数)も歴代1位記録である。

 

 野村克也(のむら かつや・1935年― 2020年)は、プロ野球選手(捕手)・コーチ監督野球解説者野球評論家で、選手としては、史上2人目・パ・リーグ初の三冠王を達成した。世界のプロ野球史上、初の捕手による三冠王である。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「1年目には種をまき、2年目には水をやり、3年目には花を咲かせましょう」