「時の影」 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

(連載小説)

 

時 の 影

(連載・第4回)

 

      (四)

 

 両手にトラックターの丸いハンドルをつかんだわたしは、前方をじっと見すえて運転をつづけていった。ディーゼルエンジンが、周囲に爆音を響かせていく。運転席の後方で、ロータリが休むことなく回転して、田んぼの乾いた土に、鋼鉄製の鋭い爪の刃をたてつづけていく。その振動がハンドルに伝わって、手や足が、快い踊りをおどりつづけているようにふるえている。

 

 田起こしをはじめてしばらくすると、どこからともなくやってくる生き物たちがいる。広い空を、自由に気ままに飛ぶことができる鳥たちである。カラスがきて、つぎにムクドリがやってきた。二羽である。

 

 よりそって、耕した土のうえを歩いている。夫婦である。トラクターの田起こしは、機械を相手に孤独な作業だといっても、鳥たちがやってくるから楽しい。子ども心がわいてきて、見ていて飽きることがないのである。

 

 ムクドリは、全長が二十四センチメートルほどでの、スズメハトの中間ぐらいの大きさである。尾羽を加えると、ヒヨドリよりひとまわり小さい。翼と胸と頸は茶褐色で、首から頭にかけてと、腰に白い部分が混じっている。足と口ばしは、黄色い。オスは胸や腹や背が黒っぽく、メスは褐色にちかい。

 

 ムクドリの繁殖期は、春から夏で、オスとメスがつがいで、樹木の洞窟や民家の軒先の穴などに、巣をつくっている。オスもメスもともに子育てをおこなって、食料をさがして、夫婦は仲良さそうに、田んぼや畑を歩きまわっている。

 

 繁殖期には巣で寝ているが、ヒナが巣立っていくと、親と子が集まって、群れをつくるようになる。夜になると、一カ所に集まってねぐらを作る。ねぐらには、十キロメートルをこえる範囲から、仲間が集まってくる。ムクドリたちの学校である。冬場になると、五万羽から六万羽の大群となることもあるそうである。

 

 どこからともなくやってきたムクドリの夫婦をみつめて、童心にかえったわたしは、中学生のころを思い出していた。手や足は、トラクターを運転している。だけど、頭のなかは、黒板にむかって、授業を受けている生徒になっていた。

 

「太陽のエネルギーを、田んぼのイネや畑の野菜などにたくわえて、人の食糧という栄養源に変換するいとなみが、農業である。太陽から地球にとどいてくるエネルギーの一パーセントが、緑色植物によって、有機化合物という生命の根源になるといわれている」

 

 教師がいった。中学校の二年生である。職業の授業で、教科は農業であった。あのころには、職業と家庭科の授業があって、二つのクラスが一つになって、男子は農業の学習だった。女子は家庭科室で、料理の実習や、ミシンを踏んで洋裁を学んでいた。

 

「田んぼは、稲作に不利な日本の土壌や、雨や台風などの気候の問題をのりこえて、主食の米を生産するための、すぐれた人口の栽培装置なのである」

 農業を教える豊平先生の授業は、よそ見ができなかった。中学校における職業および家庭科は、実際の生活に役に立つ仕事を中心に、家庭生活や職業生活にたいする理解を深めて、実生活の充実と発展を目指して学習するものであるといわれた。先生が授業をつづけた。

 

「その水田の構造である。まず作土層は、養分や有機物をたくわえたイネが成育する土の部分である。ここは一枚の田んぼの養分が、全体に均一でなければならない。そうでないとイネの育ち方や収穫の時期がばらばらになって、稲刈りができなくなってしまうからである」

 

 先生は背丈ほどの、長い竹の棒を片手にもっていた。職業家庭科の目的がいう実生活に役だつ仕事とは、ただ、手や足を動かして働くということではない。仕事をすることの意義を、個人的にも社会的にも自覚して仕事に向かい、それを能率的に、他の人と協力的に成し遂げようと工夫して、研究しながら目標を達成しなければならないという。

 

「田んぼの鋤床層(すきどこそう)は、人の足場や農業機械を支えるはたらきをしている。はじめに田んぼをつくるときには、この層をつき固めていく。水が漏れないようにして、それでも全く漏れないのも困るといった、微妙な硬さにしなければならないのである」

 

 もう一方の先生の手は、教科書を広げていた。棒と本を両手に、教室内を歩き回っていた。職業および家庭科の学習は、啓発的な経験の意義をもつと同時に、実際の生活に役に立つ知識や技能をやしなうものであるといわれていた。

 

「畦(あぜ)は、田んぼに水をたくわえるための、壁である。土で畦ぬりをして、防水加工を施して、モグラが穴をあけないように気をつけなければならない。この畦は、イネの苗や、肥料や農薬などを運ぶ通路でもある。この道を歩くと、イネの生長や生きものなどを、目にすることができる。畦道は傷をつけて、こわさないように注意しなければならない」

 

 先生の声は低い。だから、聞き取りにくい。わざと声を低くしているのかもしれなかった。注意力を耳に、集中させていなければならない。よそ見をしていると、手に持った長い竹の棒を、頭の上で振りまわすのである。

 

「水路は田んぼの入り口や出口を、空けたり閉めたりして、水を引いたり抜いたりするための、水田に水を引きこむ道である。用水路ともいう。川からこの水路に、水を引きこむところを、堰(せき)という。川の流れを、せき止めたところである」

 

 よそ見をしていた生徒は、頭に棒の直撃をうける。痛い、と叫ぶ。知らぬ顔で先生は授業をつづけた。

「水田の特徴である。よかか、耳の穴をほじくって、よく、聞いておけよ」

 低音の太い声でそういって、喉を鳴らして咳払いをしてから先生はつづけた。

 

「イネは熱帯の作物である。それが日本列島のような、温帯で栽培できるようになったのは、土の表面に水をためるという発明によって、稲作の問題点をすべて解決したからである。水をためることによって、肥料をさほどあたえなくても、空気や水や、それに土壌のなから、天然のチッソやリン酸などの肥料を吸収して利用できる。土のなかの、水分の調節がいらない。連作の障害がなく、毎年のように栽培することができる」

 

 そこで先生は、また、のどを鳴らして大きな咳をした。職業と家庭科の学習の目標は、家庭および社会の一員として、その家庭や社会の発展のために力をあわせることの意義を自覚し、そのために必要な知識や技能や態度を身につけ、その力を十分に発揮することにあるといわれた。先生の授業はつづいた。

 

「田んぼの表面に、長いあいだ水がたまっているために、雑草は酸素が欠乏して成育していくことができない。だから、草は生えてこない。水は比熱が大きいから、いちど取りこんだ熱は、かんたんに発散させない。寒さから、イネを保護してくれるのである」

 

 職業と家庭科の学習は、職業の業態や性能について理解をふかめて、個性や環境に応じて、将来の進路を選択する能力をやしなうことであるといわれた。授業を先生はつづけた。

 

「水田は、河川から引き入れた水をためるから、そこには、山からの養分が含まれている。さらには、塩分をはじめに過剰な成分を、水が流し出してくれる。田んぼの土壌が、酸素が欠乏した状態になって、イネの成育に有害な微生物や、ミミズなどの線虫とよばれる生きものが死滅するのである。それに、水のなかに含まれている空気から、雑草などが窒素ガスを体内にとりこんで、さまざまな化学作用によって、必要なチッソを田んぼに残してくれるのである」

 

 豊平先生の主な仕事は、職業科の授業のほかに、就職の進路を担当していた。中学三年になった夏の、あるときのことだった。学校のトイレへ行ったわたしが、立小便をしていると、すぐそばに先生がやってきて、ならんで小便をしながらいってきた。

 

「タケルよ、就職は神戸じゃ。製鉄所の技能訓練生じゃ。おいどんに任せておけ。三年間の学業と実技のあとは、現場へでて、やがては工場の中堅幹部になる。高校卒と変わらん」

 小便をしながら、黙ってわたしは先生に頭をさげた。

 

 祖父も祖母も、高齢だった。日頃から、学校は義務教育で十分だ、と祖母から聞かされていた。十五歳になるまでわたしは、ふたりの力で頑丈な身体に育ててもらった。だから、一日も早くこの地をはなれて、現金収入のない祖父と祖母を、楽にしてあげたかった。

 

 トラックターのハンドルをつかんだ手に神経を集中させたわたしは、頭のなかでは豊平先生の農業の授業を受けていた。時間も空間も、少年のころにもどったような、すがすがしい気分だった。ぷっと、笑いが吹きだしてくることもあった。

 

 ディーゼルエンジンの音が、爆音を響かせていく。その後方で、ロータリが休むことなく回転して、田んぼの乾いた土に、鋼鉄製の鋭い爪の刃をたてつづけていく。その振動がハンドルに伝わって、農業機械と一体になったわたしの手や足が、快い踊りをおどりつづけている。田起こしは、自分一人だけの、ささやかな祭りのようだった。