「時の影」 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

(連載小説)

 

時 の 影

(連載・第5回)

 

 

      (五)

 

「トラクターは、大きな力で犂(すき)を引っ張って、農地を耕したり、そこに肥料をまいたり、大量の作物を運搬したりすることができるのです。いまの農業は、この機械がなければ、成り立たない。ということは、人の食生活も、ままならないといえますね。まさに農業のかなめとなる機械なのです」

 

 農業機械の専門の販売店から、いまわたしが愛用している中古のトラクターを、格安で購入したときのことだった。定年をとっくにすぎて、再就職しているという高齢の販売員は、こういって語ってきかせたものだった。

 

 そのトラクターが生まれたのは一八九二年で、アメリカの穀倉地帯であるサウスダコタ州である。発明したのは、ジョン・フローリッチという人物であった。サウスダコタ州は、アメリカ合衆国の中西部にあって、グレートプレーンズとよばれる大平原にある。南西部はハイプレーンズと呼ばれて、標高の高い平原地帯である。

 

 六十歳をすぎてから、農業をはじめるのである。だからわたしは、農業そのものや、農業機械について、いくらかの知識を身につけていた。そうしないと、仕事にならないと思えた。それに、いまさら他人に、米作りについて、あれやこれやと聞くのも面倒だった。

 

「これまでは、農地を耕すのは、牛や馬などの家畜でした。だが家畜は、疲れたり病気になったりする。そのうえに、飼料であるエサを必要とする。だから、飼料を育てる土地を確保しなければならない。このような限界をのりこえるために、蒸気機関を使った農地を耕す方法が、模索されていたそうなのですね」

 

 図書館でかりてきた書物で、頭に取り入れたことがらをわたしが口にした。販売員はうなづきながらことばをつづけた。

 

「そのころに、フローリッチは、蒸気機関よりも軽くて扱いやすいエンジンである内燃機関を使うことに、はじめて成功したのです。一八九二年に開発されたこのトラクターは、十六馬力のガソリンエンジンをそなえて、前進と後退が可能だった。しかし、フローリッチのトラクターは、まったく売れなかったといいます」

 

「それから、トラクターの爆発的な普及に貢献したのが、自動車王のヘンリー・フォードだったといいますね。ベルトコンベア方式で、自動車の大量生産に成功したフォードは、一九一七年ごろからトラクターの開発にのりだして、フォードソンと命名したそうですよね」

 

 そのころヨーロッパは、第一次世界大戦のまっただなかで、おびただしい兵士や市民が亡くなっていた。とくにドイツとイギリスは、労働力の不足から農産物の収穫高が低下して、さらには輸入量が激減したために、食料危機に苦しんでいた。

 

 フォードは、トラクターをイギリスに輸出して、その食料危機を、事業を拡大させるのによい機会だと捉えた。世界中に、大量生産型の安価なトラクターを、普及させていったのである。

 

「トラクターの歴史のはじまりは、華やかにみえますよ。だけどそれは、時代の暗い影の部分と切り離せないものだったともいわれていますよね」

 

 販売店の広い敷地に、無造作に置かれたような中古のトラクターを、めぼしいものはないかと見てあるきながらわたしがいった。高齢の販売員がうなづきながらいった。二人は世間話のように、交互に語りあっていった。

 

「第一次世界大戦のときのことですよ。キャタピラ型のトラクターがモデルとなって、戦車が開発されたのです。その後の、第二次世界大戦のときには、おおかたのトラクターの工場が、戦車の工場に様変わりしたといいますからね。それは、二十世紀を象徴する風景といえたといわれていますよ」

 

 一九三〇年代のことであった。アメリカの各地で、ダストボウルとよばれる砂嵐が、猛威をふるったという。上空が砂で覆われて、昼間なのに夜のように暗くなった。その原因が、土壌の浸食だった。農地に大量の人工の肥料を施して、重いトラクターで土壌を圧縮した。

 

 そのために、農地の構造が破壊されて、土が砂のようになって、風にあおられて、宙に舞ったのである。この現象は、いま、アフリカの開発地帯で、大きな悩みの種になっているようである。

 

「トラクターは、家畜とは違っていますからね。糞尿を産み出すことができない。牛や馬の排泄物は、堆肥にすると農地の土壌を肥やしてくれる。トラクターには、そんな機能はない。その意味では、化学肥料の世界的な普及を、トラクターはもたらしたといえるんです」

 

「そうです。それに、トラクターと化学肥料の普及によって、農作物の大量生産が可能になった。そのために、生産が過剰な状態になって、農産品の価格が大幅に下落した。それがひとつの原因となって、一九二九年に世界恐慌がおこったといわれていますね」

 

 販売店の屋外の敷地には、古いトラクターが十数台ほど並べられている。どれも長い歳月を、田んぼや畑で仕事をしてきた機械たちであった。塗装が土色に変色しているせいか、疲れ切った農家の老人に見えた。農機具店の販売員がいった。

 

「日本のトラクターの歴史をみると、単位面積あたりの乗用型のトラクターの利用の台数が、世界で一番なのです。海外にも、輸出をつづけていますよ」

「狭い国土にもかかわらず、なぜこれだけ普及したのでしょうかね」

 

 子供のころのわたしは、牛や馬がいなければ、田んぼに米は作れないと思っていた。農業機械はそのころ、どこにもなかった。見たことすらなかった。農業機械にくわしい販売員が、得意顔になって声を弾ませた。

 

「それはですね、第二次世界大戦の前から、歩行型のトラクターが開発されて、その延長として、小型の乗用型が普及したからなのですよ」

「歩行型のトラクターは、岡山県の干拓地を中心に使われたそうですが」

 

「ええ、そうなんです。あそこでは、低地にある田んぼに、水をくみあげるためのポンプを、地元の鍛冶屋が制作したり、修理をしたりしていましたからね。その技術が、トラクターの開発にむすびついたのですよ。それに岡山には、タタラとよばれる和鉄の生産の伝統があって、そこの職人たちも、歩行型のトラクターの開発に貢献したそうなのです」

 

 一九七〇年代から一九八〇年代にかけて、農業の資金制度が整いはじめて、農業機械を制作する企業の販売網が、国の隅々に広がっていった。そうやって、小型の乗用トラクターは普及していったと、販売員はいうのだった。

 

 だが、農村では、高額な機械は購入したけれども、膨大な借金から逃れられなくなった。機械化貧乏とよばれる新しい頭痛の種が、田んぼから芽をだして、害虫のように生えてきたのである。

 

 それにトラクターは、石油を大量に消費する。農業を、石油依存型の産業に変えた。高すぎるその価格は、いまだに解決されていないのである。