「時の影」 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

(連載小説)

 

時 の 影

(連載・第3回)

 

 

      (三)

 

 トラクターの鋭い刃物で掘り起こされた田んぼは、雑多な草の類が、根こそぎに引き抜かれている。そのうえから土がかぶされて、こげ茶色にかがやいている。そこを、二羽のカラスが呑気そうに歩いている。ミミズを探しているのにちがいない。

 

 そのときだった。ふと農道に目をむけると、和光が一輪車を押して、こんどはもどってくるところだった。川へ行ってきたのにちがいない。雄大な滝の流れを、眺めてきたのかもしれない。つよい日ざしをあびて、汗で顔が光っているようにみえた。

 

「夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは 茶摘みじゃないか 茜襷(あかねだすき)に菅(すげ)の笠……」

 和光は歌が好きである。幼いころからよく口ずさんでいた。一輪車を押しながら、七十歳をとっくにすぎたいまも、唱歌を大声ではりあげていた。

 

 和光が歌うアカネタスキというのは、茶を摘む娘たちが、肩から掛けている赤いたすきのことである。スゲは、カヤツリグサ科の草である。

 南九州のこの地は、広大な茶畑が多い。いまは巨大な機械が、茶摘みを行っている。むかしは人の手で、摘み取っていたのだった。その茶摘み歌を、声をはりあげて和光は歌いつづけていた。

 

「日和続きの今日この頃を 心のどかに摘みつつ歌う 摘めよ 摘め摘め 摘まねばならぬ 摘まにや日本の茶にならぬ」

 いまから八十年ちかい前のことである。太平洋戦争が終わってしばらくしてからだった。まだ幼い子どもだった和光は、両親につれられて、中国大陸の満州から、故郷のこの地へ引き揚げてきたのだった。父親は、祖母の弟だった。

 

 ある日の夜のことだった。食事がすんで茶をのみながら、囲炉裏端で祖母と祖父が語りあっていた。幼いわたしは傍に座って、聞くとはなしに耳を傾けていた。

 

 和光の家族が、満州にいたころのことであった。一九四四年(昭和十九)の、春のことだったという。いまごろの季節で、五月のことであった。三歳だった和光は、猛烈な頭痛に苦しんでいた。母親が体温計を腕の脇に入れて測ってみると、四十度をこえる高い熱があったというのである。

 

 両親や近所の人びとが心配して、大車とよばれる三頭の馬でひく二輪車を手配して、およそ二十キロメートルほど離れた四平市の、満州鉄道病院へとむかった。

 

 医師の診察を受けると、両手を前に差し出しただけで、発疹チフスと診断された。ただちに、隔離病棟へとはこばれていった。案内されていった病室には、すでに三人の患者が入院していた。その人たちの隅のベッドに、和光はよこになった。それからずっと、意識不明のまま眠りつづけた。

 

 目がさめて意識をとりもどすと、病室には誰もいなかった。十日間ほど、なにも知らずに眠りつづけていたわけである。

「入院されていた三人の方々は……」

 看護師に母親がきくと、

「みなさんは、天国へ行かれましたよ」

 こういってから、看護師は笑顔になって母親にいった。

 

「あなたのお子さんは、感心でしたよ。三人の方々は高熱のために、食事もろくに召し上がらないのに、お子さんは、三度の食事を、ちゃんと起きて、おいしそうに食べていましたからね」

 ほっとした母親に、さらに看護師がことばをかさねた。

「そうめんやうどんが、大好物のようですね。おいしい、おいしい、といって、ぺろっと食べていましたよ」
 こういって看護師は、うれしそうに笑ったというのだった。

 

 祖父が語るには、発疹チフスは細菌の感染症である。コロモジラミや、マタマジラミによって媒介されるのだという。とくに、戦争や飢饉や、牢獄や収容所などに発生して、戦争熱とか、飢饉熱などの別の呼び名があるくらいであるという。焼酎でほろ酔いになったあとに、湯飲み茶わんを手にした祖父がつづけた。

 

「この病気は、明治二十年の一八八七年ごろから感染が診られるようになって、日本軍の中国大陸への侵攻が進んだ明治の時代から、太平洋戦争が敗戦で終了したときの、昭和の二十年代、つまり、一九四五年にかけてよく流行した。これが、戦争熱なのよ」

明治の中ごろに生まれた祖父は、かつてのこの国のできごとをよく知っていた。晩酌の焼酎に酔うと、語ってきかせた。食事をすませたわたしは、聞き耳をたてていた。

 

「発疹チフスは、はげしい頭痛や、精神の錯乱などの、脳の症状がつよいのが特徴らしい」

和光の両親が、開拓団員として南九州から日本海を渡っていった満州国は、一九三一年に、満州事変をおこした日本の関東軍が中心となって、翌年の一九三二年の三月に、中国の東北地方に建国された。祖母が湯飲みを両手につかんだままいった。

 

「あのとき、和光は、頭に後遺症をのこしたのですな。かわいそうに」

 満州国は、旧清朝の、宣統帝であった溥儀を執政として、五族協和をかかげた。だが実態は、日本の関東軍の、傀儡国家であった。

 

「かいらいというのは、自分の意志や主義をあらわさずに、他人の言いなりに動いて、利用されている者のことじゃ。でくの坊や、あやつり人形じゃ。五族というのは、満州事変がはじまる前から、満州に居住しておった人たちで、漢族、満州族、蒙古族、日本人、朝鮮族のことをいったのよ」

 祖父は目をとじて、ひとりごとのようにいった。

 

 和光の父親が、電気関係の仕事ではたらいていた南満州鉄道は、ロシア帝国がシベリア鉄道の支線として敷設した東清鉄道の一部である。新京(現在の長春)から旅順(現在の瀋陽)までの鉄道を基礎にして、一九〇六年(明治三十九)に設立された。略して、満鉄とよばれた。

 

 目をあけて、あらたまった顔つきになった祖父が、さらに語ってきかせた。

「太平洋戦争がはじまったのは、一九四一年(昭和十六)だった。第二次世界大戦の局面の一つで、大東亜戦争ともよばれた。じっさいには、そのまえから、日本と中国の戦争がつづいていたから、その継続としての側面もあったのよ」

 その太平洋戦争は、一九四五年(昭和二十)の八月十五日に、連合国が勝利して、日本は無条件で降伏した。

「政府が、降伏の文書に署名したのは、九月二日だった。これが正式な終戦の日なのじゃ。その後は、アメリカ合衆国の連邦政府(GHQ)によって、この国は占領されてしもうたのよ」

 

 一九四五年の八月八日のことだった。第二次世界大戦の末期である。そのときソ連は、日本と結んでいた中立条約を一方的に破棄して、宣戦布告をしてきた。その翌日の、八月九日の夜明けまえに、満州国へ侵攻してきたのである。祖父がいった。

 

「満州国を守っていた関東軍は、民間人からトラックや乗用車を徴用して、列車も確保した。軍人の家族たちは、その夜のうちに、列車で満州の東部へ避難することができた。じゃが、その翌日以降に、ソ連軍の侵攻の事実を知った多くの一般の人や、民間の人たちは、移動の手段がなかった。大陸を徒歩で非難するしかなかった。集団になって逃避行よ」

 

 ソ連との国境付近に在留する日本人のうちの、成人の男性は、関東軍の命令によって、国境警備軍を結成して、ソ連軍に対峙していた。このことから、避難民は、老人や婦人や子どもがほとんどであったという。

 

 ソ連軍の侵攻と、日本の関東軍の撤退によって、満州における日本の支配権と、それにもとづく社会の秩序は崩壊した。満州の内陸部へと、入植した開拓団の人たちの帰国は、困難をきわめた。避難の大混乱のなかで、家族と離ればなれになったり、途中で命を亡くした人たちが多くいたというのである。祖父は語りつづけた。

 

「遼東半島へソ連軍が到達するまでに、大連港からの引き揚げに間にあわなかった人々の多くは、日本人収容所にいれられて、帰国を足どめにされた。さらに、一九四六年の春まで、帰国は許可されなかった。収容所での越冬中に、きびしい寒波や、栄養失調や、マラリアなどの病気で、命を落とす人びとが続出した。家族の離散や、死別の悲劇が多くうまれたそうなのじゃ」

 

 この避難のさなかに、身寄りがなくなった日本人は、幼児は縁故によって、または人身売買によって、中国人の養子になった。その人たちが、残留孤児である。若い女性は、中国人の妻となった。残留婦人となって、生きのびていかなければならなかったのである。

 

「満州にとりのこされたおよそ百五万人の、日本人の本国への送還は、一九四六年の三月に、満州からソ連軍の撤退が本格化するまで、何らの動きもみられなかった」

 一九四六年の夏になると、満州の首都であった新京の、日本人収容所をふくめて、引き揚げが本格化した。年内には、おおかたの日本人が、引き揚げていった。そのときの犠牲者は、日本とソ連の戦争の死亡者をふくめて、およそ二十四万五千人にのぼったという。

 

「このうちの八万人ちかくを、満蒙開拓団員がしめたといわれておる。東京大空襲や、広島や長崎への原爆投下や、さらには沖縄戦の数をこえたといわれているのじゃ」

 そういって祖父は、頭をふってイヤイヤをした。

 

 一九四五年の八月十五日の、敗戦のときに、国外にいた日本人は、軍人や軍属とよばれた。軍隊関係に所属した人たちや、それに民間の人たちが、六百六十万人だったといわれる。その数は、そのころの日本の人口の、一割ちかくだったとみられている。喉をならして咳をしてから祖父がいった。

 

「敗戦になった。そこで、民族の大移動ともいえる規模の、引き揚げがはじまった。ところが、祖国にもどれずに、亡くなったひとも多くいた。民間人の引き揚げは、集団の引き揚げが主であったが、密航や個別に船を用達してもどってくる人もいたらしい」

 

 この帰還の事業は、アメリカからおよそ二百隻の船舶の貸与と援助をうけて、急速にすすんだという。一九四六年の、敗戦の翌年までには、五百万人をこえる人々が、日本の国内にもどってきた。

 

 その一方で、ソビエト連邦に捕虜として抑留されたり、中国での解放軍と国民軍の内戦に、留用されて帰還がおくれた人々もいたという。それに、乳児や幼児だった中国残留孤児の多くは、日本の国策として、満州大陸へ送りこまれた開拓団員の子どもたちであった。彼らの引き揚げは、戦争が終わったいまも、終わっていないのである。

 

「和光の身のうえに降りかかった災難から、話しが長くなりましたな」

 茶をひと口のんでから祖母が小声でいって、ふたりは顔を見あわせて黙りこんだ。