「時の影」 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

(連載小説)

 

時 の 影

(連載・第2回)

 

 

      (二)

 

 天空を見あげると、空は青く、限りなく高い。空気が澄みきっている。風はない。遠くの山々は、濃い緑の稜線がはっきりとみてとれる。新緑が、いまが盛りと息吹いている。太陽がほぼ真上で、ありあまるほど輝いて、目にするもののすべてが、乱反射してまぶしい。自然界はあらゆるものが、寒い冬をぬけだして、あらたな生き物に生まれ変わっていく。

 

「輪廻転生ということばがある。人は生まれ変わり、死に変わりしつづけるということじゃ。輪廻とは、車輪がぐるぐると回転しつづけるように、人は何度も生死をくりかえすことをいう。転生とは、生まれ変わることをいうのよ」

 こういって、祖父が語ったことがあった。幼いころのわたしは、祖父につきまとった。山へ行くにも、川へ行くにも、いつも後からついていったものだった。

 

 トラックターのエンジンをとめて、ひと休みしたわたしは、首に巻いたタオルで顔の汗をぬぐった。気温は夏にちかい。背中も腹のまわりも、汗ばんでいる。慎重な運転の連続で、緊張していたせいだった。暑い。妻のアカネが持たせてくれた飲料水を、ごくごくと音をたてて口にふくんでから、ほっとひと息ついた。

 

 そのときだった。田んぼ沿いの農道を、一輪車を両手で押して歩いていきながら、こちらにむかって大きな叫び声をあげた男がいた。ショートパンツをはいて、袖なしのランニングシャツを着ている。

 

「タケルよ、よか日和じゃつどね、気張れよ。何事も我がためじゃ」

和光だった。古びた麦わら帽子をかぶって、首にタオルをまいていた。足はよく見えないが、たぶんサンダル履きだろう。また叫んだ。

 

「じゃっどん、よそ見をして、怪我をするなよな。気を張って、仕事をせえよ」

にこにこ笑いながら、一輪車を押して和光は通り過ぎていった。黙ったまま、わかった、といったふうに、右の手をわたしは高くふった。

 

 和光が注意をうながしたように、農業機械による作業で、事故がもっとも多いのは、いまわたしが使っている乗用型のトラクターである。坂道やせまい道路での、転落や転倒による大きな災害である。犠牲者は、ほとんどが高齢者であった。

 

 つい先日も、田んぼの近くの坂道を、トラクターを運転していて、タイヤが道路脇から外れて、そのまま転落して、下敷きになって死亡した事故があった。和光にわたしは叫んだ。

「あんたも気をつけんとな、車がくるから、危ないから、よそ見をするなよ」

 

 和光が行く道は、農道だとはいっても、軽トラックや自家用の軽自動車が走る。一方通行で道が狭いから、油断ができないのである。

 

 ウグイスの鋭い叫び声が、近くの竹山から響いてきた。ホーホケキョと、また鳴き叫んだ。その鳴き声は、ヒナのためにエサを運ぶメスにむかって、オスが叫んでいるのらしい。ホーホケキョとまた鳴いた。

 

「縄張りに、異常はないよ。だから、巣は、安全だよ。大丈夫だよ。心配せんでも、いいよ」

 こういって、知らせている。春から夏の繁殖期になると、早朝から日暮れまで、ホーホケキョ、ホーホケキョと盛んに鳴き叫んでいる。一日に一千回もの、鳴くことがあるそうである。

 

「ピピョピヨピヨピヨー、ピピヨピヨピヨピヨー」

 と、こんどは切羽詰まった鳴き声がひびいてきた。仲間にむかって、

「気をつけろよ、気をつけろよ。よそ見をするなよ」
 と、警戒するように知らせているのである。近くにカラスなどの外敵がいて、ヒナのそばから離れないようにと、知らせているのにちがいない。

 

「八十八夜というのは、立春から、つまりは節分の翌日から、八十八日目にあたる日のことで、この時期から、農家では、農作業をはじめる目安になっているのよ」

 ウグイスの叫ぶ声が、祖父が語って聞かせたことばとかさなって、昨日のことようによみがえってきた。さらに祖父は、こういったものである。

 

「それにな、米の字を分解すると、八十八になる。末広がりの八がかさなって、縁起がいいということから、農業の吉日とされておるのじゃ。これから先は、霜が降りる心配がなくなって、農家では、茶摘みやイネの苗代づくりやと、いろんな仕事がふえて、忙しくなるのじゃ」

 

 祖父のことばに促された気になったわたしは、ふたたび仕事にとりかかった。左足でクラッチを踏んで、キースイッチをひねった。農業機械が大きな身ぶるいをしてから、低速運転をはじめると、田起こし作業をする生きものになって、ふたたび水田の固い土を掘りおこしはじめた。

 

 昭和の三十年代(一九五五)ごろのことだった。わたしが子どもだったころである。このあたりの米作農家は、どこも馬や牛の力をかりて、田んぼや畑を耕していた。それがロータリー耕運機になって、いまは自動車のような乗用のトラクターになった。農業が機械化して、便利になったものである。そのかわりに、ひとりぼっちで、孤独な作業になった。

 

 トラックターの丸いハンドルをつかんだ両手に、神経を集中させたわたしは、前方を見すえてゆっくりと運転していった。ディーゼルエンジンが周囲に爆音を響かせていく。運転席の後方で、ロータリが休むことなく回転して、田んぼの乾いた土に、鋼鉄製の鋭い爪の刃をたてつづけている。その振動がハンドルに伝わって、わたしの手や足は快い踊りをおどりつづけているようにふるえる。

 

 田起こしをはじめてしばらくすると、どこからともなくやってくる生き物たちがいる。空を気ままに飛ぶことができる鳥たちである。まずカラスであった。いまごろの、春から夏にかけてが、カラスの繁殖期である。あの鳥は一夫一婦制で、オスとメスが力を合わせて、子育てを行っている。

 

 巣は山の中の、高い木の上に、小枝を組み合わせて作っている。近ごろでは、電柱や送電塔などに、針金やビニールなどで巣をつくっている。電力会社の社員が、クレーン車にのって、飛んできたのを見たことがある。

 

 カラスの夫婦が、トラックターが掘り起こした田んぼの中を、ならんで歩いている。ミミズをねらっているのにちがいない。その姿に、祖母の顔がかさなった。自然界のどこかで、時の影になった祖母が、わたしの仕事ぶりを見守っているような気がしてきた。あのカラスが、こんどは祖母の使者にみえてきたのである。

 

「世間の人は、だれもかれも、カラスじゃ」

 子どものころである。それが祖母の口ぐせだった。世間の人は、誰もかれも、みんな山で暮らしているカラスと同じだというのである。それが田んぼや畑へ降りてきて、ギャーギヤーと鳴き叫ぶ。せからしくて仕方がない。電線にとまって、ギャーギャー叫ぶ。


「あんたはカラスじゃなか。トビじゃ、タカじゃ。高い天空をゆうゆうと舞って、鋭い目つきで、世間と地上の生きものを見おろしておる。あんたは、トビじゃ、タカじゃ、ハヤブサじゃ」
 こういって祖母は、空を高く飛ぶ鳥になって、世の中を生きていけと、いうのだった。そういわれて、世間の人々は、カラスだというたとえは、すぐにのみこめた。

 

 子ども仲間でも、せからしいのがいた。くだらないことを言うものがいる。そのうえに、顔は日に焼けて真っ黒である。カラスにそっくりである。

「肉や魚は、毎日の食事にでてくる」

 

 こういって、家が裕福だと威張っている。聞きたくない。サツマイモがあれば死にはしない、と祖母はいうからだった。
「せからしが、このカラスめが」
 

 祖母の口ぶりをまねて、相手をとがめてやった。六年生のときだった。するとすぐに、親や学校の先生に告げ口をするのだった。先生に呼ばれて、注意をうけたことがあった。あのカラスを山へ遠く、追い払ってしまいたい。それができない。親が金持ちの子のくせに、翼をもっていないのである。


 そこで考えた。世間の人に、カラスと言ってはいけないのである。心のなかにしまっておかなければならない。あの子は高いところから人を見下している、と世間の親たちから言われては、祖母がかわいそうであった。


 天空を高く飛ぶ鳥たちを見ていると、あの鳥たちのようになりたいと、子ども心がよみがえってくる。ハヤブサが青い空の高くで、翼を広げていた。タカが負けまいとして、より高く舞っていた。


 カラスとトビは、仲が悪い。トビがカラスの卵やヒナを、食べてしまうからである。木にいたカラスがトビを追う。集団で追っていく。トビはここまでおいでと尾をふって、高くより高く、澄みきった空をすいすいと登っていくのである。

 

 カラスは親と子が、家族で群れをつくって生活をしている。子は成長すると、つがいで固定された縄張りをもっている。若鳥は、群れをつくって暮らしている。繁殖中のつがいは、巣のちかくでねぐらをとるが、そのほかは、夜間に人が立ち入ることができないよく茂った林や竹やぶで、集団になってねぐらをとっている。

 

 カラスは少なくとも四十一の言葉をもっているといわれる。「カーカーカー」と鳴くのは、エサを見つけて、仲間を呼び寄せるときである。

「こっちに食べものがあるよ」といっている。

 

「カッカッカッ、カッカッカッ」と鳴くのは、タカなどの天敵が近づいてきたことを仲間に知らせたり、警戒するときの言葉である。

「危険だぞ、気をつけろよ」

というわけである。

 

「クアークアー、クアークアー」と鳴き叫ぶのは、ねくらに帰ろうとするときの言葉で、

「安全だよ、大丈夫だぞ」といっているのである。