武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ・1885年―1976年)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家である。
トルストイに傾倒して、『白樺』創刊に参加する。天衣無縫の文体で、人道主義文学を創造した。「新しき村」を建設して、実践運動を行った。伝記や美術論も数多い
姓の武者小路は、本来「むしゃのこうじ」と読むが、実篤は「むしゃこうじ」に読み方を変更した。
しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。
東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で、江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家の武者小路実世(さねよ)子爵と、勘解由小路家(かでのこうじけ)出身の秋子(なるこ)夫妻の第8子として生まれた。
上の5人は夭折しており、姉の伊嘉子、兄の公共と育った。2歳の時に父が結核で死去する。
1891年(明治24年)に、学習院初等科に入学する。得意科目は朗読と数学で、体操と作文が苦手だった。
同中等学科6年の時に、留年していた2歳年上の志賀直哉と親しくなる。同高等学科時代は、トルストイに傾倒して、聖書や仏典なども読んでいた。
日本の作家では、夏目漱石を愛読するようになる。1906年(明治39年)に、東京帝国大学哲学科社会学専修に入学する。
1907年(明治40年)に、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や、木下利玄らとつくった「十四日会」で創作活動をする。
同年に、東大を中退する。翌年には、処女作品集『荒野』を自費出版した。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊する。
彼らはこれに因んで、白樺派と呼ばれて、実篤は白樺派の思想的な支柱となる。「白樺」創刊号に、「『それから』に就いて」を発表して、漱石から好意的な手紙を得た。
そこでは「夏目漱石氏は真の意味に於ては自分の先生のやうな方である、さうして今の日本の文壇に於て最も大なる人として私かに自分は尊敬してゐる」と述べており、以後漱石の依頼で「朝日文芸欄」に執筆するなど、親密な交流を続けた。
文学上の師を持たない主義であったため、いわゆる漱石門下とは区別されることが多いが、事実上の弟子とする見解もある。
1913年(大正2年)に、竹尾房子と結婚する。1916年(大正5年)には、柳宗悦や志賀直哉が移り住んでいた現在の千葉県我孫子市に移住した。
理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に、村落共同体「新しき村」を建設した。
実篤は農作業をしながら文筆活動を続けて、大阪毎日新聞に『友情』を連載する。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったために、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに、村落共同体「新しき村」を建設した。
但し実篤は、1924年(大正13年)に離村して、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。
この両村は今日でも現存する。同村のウェブサイトでは、実篤が村外会員になって文筆活動に専念した事を好意的に受け止めている。
実際に実篤が村民だった頃の活動は、離村後の彼の執筆に多大な影響を及ぼしたといわれている。
また同村にとっても、実篤が事実上その象徴的役割を果たしたことは否めず、両者は今日に至るまで、言わば持ちつ持たれつの関係にあると見ることもできる。
1922年(大正11年)、房子と離婚して、飯河(いごう)安子と再婚する。翌年の関東大震災で生家が焼失する。『白樺』も終刊となった。
この頃からスケッチや淡彩画を描くようになる。また油絵も描き、1929年(昭和4年)には東京・日本橋の丸善で個展も開いた。
執筆依頼がほとんどない「失業時代」で、トルストイ、二宮尊徳、井原西鶴、大石良雄、一休、釈迦などの伝記小説を多く執筆した。
1936年(昭和11年)の4月27日から、ヨーロッパ旅行に出発する。12月12日帰国する。旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく。
1937年(昭和12年)、帝国芸術院に新設された文芸部門の会員に選出される。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後に、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨てた。
日露戦争の時期とは態度を180度変えて、戦争賛成の立場に転向して、日本文学報国会劇文学部会長を務めるなどの戦争協力を行った。
1946年(昭和21年)3月22日には貴族院議員に勅選されるが(同年8月7日に辞職した。同年9月には、太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された。
1948年(昭和23年)には、主幹として『心』を創刊して、『真理先生』を連載する。1951年(昭和26年)に、追放解除となって、同年に文化勲章を受章した。
晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」や「君は君 我は我なり されど仲良き」などの文を添えた色紙を揮毫したことでも有名だった。
1955年(昭和30年)に、70歳で調布市仙川に移住して、亡くなるまでこの地で過ごした。
1971年に志賀直哉が亡くなった際に、実篤は彼の葬儀に駆けつけて、弔辞を述べたが、細々とした声で聞き取れた人はいなかったという。
1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある東京慈恵会医科大学附属第三病院で尿毒症により死去した。享年92(満90歳没)だった。
武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ・1885~1976)は、小説家・劇作家である。トルストイに傾倒して、志賀直哉らと雑誌「白樺」を創刊した。
のちに、人道主義の実践場として「新しき村」を建設した。小説に「お目出たき人」、「幸福者」、「友情」、「真理先生」、戯曲に「人間万歳」などがある。
人間の生き方について彼は語っている。
「この道より我を生かす道はなし、この道を行く」