岡本太郎(おかもと たろう、1911年― 1996年)は、日本の芸術家で、1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。
岡本太郎は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平と、歌人で小説家の、かの子との間に長男として生まれる。
父方の祖父は、町書家の岡本可亭であって、当時、可亭に師事していた北大路魯山人とは、家族ぐるみの付き合いがあった。
父の一平は、朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博して、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になる。
だが、付き合いのために、収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。
母のかの子は、大地主の長女として、乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中する。 お嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。
岡本が3歳から4歳の頃に、かまって欲しさにかの子の邪魔をすると、彼女は太郎を兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードがある。
また、かの子の敬慕者で、愛人でもある堀切茂雄を、一平の公認で自宅に住まわせていた。そのことについて、かの子は、創作の為のプラトニックな友人であると弁明していた。
だが、実際にはそうではなく、自身も放蕩経験がある一平は、容認せざるを得なかった。後に岡本は、「母親としては最低の人だった」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。
岡本太郎(1911―1996)は洋画家・彫刻家で、パリで抽象芸術やシュールレアリスム運動など前衛運動に参加した。1970年には大阪万博に、「太陽の塔」を制作した。絵画作品に「傷ましき腕」などがある。
人間の生き方について彼は語っている。
「人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか」