人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー1744年1803年)は、ドイツの哲学者文学者詩人神学者である。

 カントの哲学などに触発されて、若きゲーテシュトゥルム・ウント・ドラング、ドイツ古典主義文学およびドイツロマン主義に多大な影響を残すなど、ドイツ文学と哲学の両面において忘れることの出来ない人物である。

 

 優れた言語論や歴史哲学や、作を残したほかに、一世を風靡していたカントの超越論的観念論の哲学と対決して、歴史的・人間発生学的な見地から、自身の哲学を展開して、カントの哲学とは違った面で、20世紀の哲学に影響を与えた人物としても知られている。

 

 地質学者で、鉱物学者ジギムント・アウグスト・ヴォルフガング・ヘルダーは息子で、植物学者フェルディナント・ゴットフリート・フォン・ヘルダーは孫である。

 

 彼は、東プロイセンモールンゲン(現在のポーランドヴァルミア=マズールィ県オストルダ郡モロンク)に、織物職人の子として生まれる。

 家庭は裕福ではなく、父親はオルガン奏者や、小学校の教員などで家計を維持していた。ヘルダーは学校では抜群の成績を残していたが、貧困のため大学には進学できずにいた。

 

 1761年に、七年戦争からロシアへ引き上げる途中で、モールンゲンに駐在していた軍医によって、ヘルダーの才能が見出されて、軍医は彼を外科医にするために、ケーニヒスベルクへ連れていき、ケーニヒスベルク大学の医学部に入学させた。

 

 しかし、医学部の授業には馴染めずに、神学部に転部した。たまたま当大学で、哲学を担当していたカントの講義を聞き、大いに刺激を受けた。

 ただし、この頃のカントは批判期以前で、カントは物理学から地理学まで担当しており、この百科全書的な知識にヘルダーは惹かれたらしい。

 その後も、師、友人、ライバルとして、カントは生涯を通じてヘルダーに影響を与えた人物であった。

 

 当地では、カント以上に親交が深かった人物がいた。「北の博士」の異名をもつ思想家のハーマンである。

 ハーマンはケーニヒスベルク出身で、ヘルダーが当地で学んでいた時は、既に「ロンドンの回心」の後であって、当地に戻って英文学やイスラム学を研究していた。

 

 ハーマン家は代々眼科医で、ヘルダーが眼病を患ってハーマンの診療所に通ったことが、彼を知る機縁であったといわれている。

 敬虔なヘルダーにとって、ハーマンの存在は魅力的であった。ハーマンからシェイクスピアの文学や、ディヴィッド・ヒュームの哲学などを学んだといわれている。

 

 その後、ヘルダーは大学卒業後に、ハーマンの紹介でケーニヒスベルクよりさらに北方のリガの、大聖堂の説教師に就く事ができた。

 

 当地のリガでは、熱心な教育ぶりが買われて、好評であった。またハーマンの発行する文芸新聞に、ハーマンの詩の批評をすることができた。

 この批評も好評で、ヘルダーの文芸評論の才能を世間に認めさせることになった。1766年からは文筆活動も開始、『現代ドイツ文学断章』を出版した。

 

 これは、ゴットホルト・エフライム・レッシングモーゼス・メンデルスゾーントマス・アプトらが中心となって編集していた、『最近のドイツ文学に関する文学書簡』という雑誌に対する見解が元になっていて、後の文芸評論に大きな影響を与えた。

 

 すでにこの中に、歴史主義的な見解が述べられて、ヘルダーの言語哲学と、歴史哲学の大元が出来上がっている。

 この文芸評論によって、たちまち著名になったヘルダーであったが、改版時の同評論における、ベルリン大学の雄弁術教授、クリスティアン・アドルフ・クロッツの詩に対する評価が原因で、クロッツによる非難が始まって、論争になった。

 

 ついで出版された『批判論叢』(あるいは批判の森。クロッツに対する反論)や、『ヘブライ人の考古学』など、歴史家としてのヘルダーの著作が、汎神論的な見解によって、リガで聖職者の身である人物にふさわしくないと非難される。

 

 これも一因となって彼はリガを去り、フランス文学に対する知見を広めようと、フランスへ向けて旅立った。1769年であった。

 リガから中継地を経て、パリにまで赴いた記録が、『フランスへの旅の日誌』という著作である。

 ヘルダーは、フランスの哲学者の著作などを読みあさり、パリではディドロダランベールを訪問した。

 ほどなくして、ドイツの王子の教養旅行の同伴者の話がきて、またドイツへと帰った。1770年のことであった。

 

 ヘルダーは、文芸評論家としてすでに有名であったのに対して、当時ゲーテは、まだシュトラスブルクの無名な学生であった

 ドイツへの帰路に、船が難破したが、運良く救い出されて、九死に一生を得た。途中のハンブルクでは、レッシングと会うことができた。

 

 その後に、任務である王子のお供をして、イタリアへと旅立った。途中の街で、妻になるカロリーネ・フラックスラントに逢う。

 しかし、宮中の他の人物たちとうまが合わずに、なかなか思うようにいかない旅行だった。そこへ彼の性格に適した牧師の話が届き、シュトラスブルク滞在中に、王子に同伴の辞退を申し入れる。

 

 眼病を癒しながらその準備をしていた時に、当地の学生であった若きゲーテが、ヘルダーを訪ねてくるという、ドイツ文学史上で特筆すべき出会いがあった。

 ゲーテはヘルダーから、シュトゥルム・ウント・ドラングという新しい文学観を吹き込まれたのであった。1771年の春であった。

 

 また、かねてからヘルダーの哲学において常に関心の中心にあった言語の問題に関する懸賞論文を執筆して、『言語起源論』として1772年に出版した。

 ヨハン・ペーター・ジュスミルヒの言語神授説に対して、ヘルダーは言語を人間によってのみ作り出されたものであるとして、神による創造を徹頭徹尾否定したのである。

 

 この書は、神秘的な思想を持つ師匠のハーマンには批判されたが、後の世のヴィルヘルム・フォン・フンボルトなどにも影響を与えて、後の近代言語学の礎にもなった。

 

 シュトラスブルク滞在後に、かねてから望んでいた牧師の職についた。場所は、ザクセン公国(現ニーダーザクセン州)の小都市ビュッケブルクである。

 

 文学だけでは生計がままならず、孤独な時期でもあった。1776年に、ヴァイマルで政治家をしていたゲーテの尽力によりって、ヴァイマル公国の宗務管区の総監督につくことができて、学者として大いに活躍することができた。

 

 この頃のゲーテは、既に疾風怒濤の時代を離れていた。1780年代には、ヘルダーはゲーテと共同で、当時タブーであったスピノザの哲学を研究する(後のスピノザ論争の機縁になるとともに、現代におけるスピノザ研究の礎になった)など、ドイツでも屈指の著名な学者になっていた。

 

 1784年から1791年にかけて、未刊の大著『人類歴史哲学考』を著して、人類の歴史の発展過程を、「人間性」と「時代精神」という概念を軸に論述した。

 またフランス革命に感銘を受けて、『人間性促進のための書簡』(1793-95年)を著した。

 

 これはかの歴史的な出来事を、ヘルダーの依拠した人間性と時代精神の観点から考察したものである。

 いずれも古典主義文学に見られるゲーテの、美的世界観に対する批判でもあった。これらの書に対しては、ゲーテやシラー、カントらから、厳しい評価がなされる。

 

 これへの応酬として、ヘルダーは、かつての恩師で、当時ドイツ哲学界を席巻していたカントの唱えた批判哲学に対する再批判の書、『純粋理性批判のメタ批判』(1799年)、『カリゴーネ』(1800年)を著す。

 

 ヘルダーによれば、カントの哲学は、人間の意識を個々の諸能力に分解して、対象世界を「現象」と「物自体」という非生命的なものに分断していて、「純粋な理性」や「ア・プリオリな認識」などは、人間理性本来の姿をわきまえない単なる「言葉の乱用」であって、カント哲学は、人間理性本来の姿である言語の問題をいっこうに直視していないという。

 

 人間性および歴史性を重視するヘルダーの哲学らしい立場をみせるが、これらの書で、彼のカント哲学に対する誤解や理解不足が認められたのも事実であった。

 しかし、ヘルダーの哲学が、19世紀から20世紀にかけて、カント以来のドイツ観念論哲学が批判的に検討されて、歴史主義や人間学的な立場が旺盛になるにつれて、この先駆をなすものの一つとして評価されていることも見逃せない。

 

 文化の中心地ヴァイマルにおいて、ヘルダーにしてみれば、時代が自身の考えを受け入れようとはせず、友人や恩師とも論争を繰り返さなければならないという苦悩の晩年を過ごしながら、1803年に59歳で没した。

 

 ヘルダー(1744―1803)は、ドイツ哲学者文学者で、自然と歴史発展の中に神を直観する立場から、自然、感情民族個性尊重を説き、シュトゥルム・ウント・ドラング(革新的文学)運動に理論的指針を与えた。

 著書に「言語起源論考」「人類歴史哲学考」などがある。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

 「労働は美徳の源泉である」