人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 高野 房太郎(たかの ふさたろう・1869年1904年)は、明治期の日本労働組合運動の先駆者で、長崎県長崎市出身である。

 日本の社会科学者の一人で、社会統計学者の高野岩三郎は弟である。

 

 彼は、長崎銀屋町で生まれる。幼名は久太郎で、父は仕立業を営んでいた。1877年に家族とともに東京に移り、父は現在の千代田区東神田付近の自宅兼店舗で旅館兼廻漕業の「長崎屋」を新たに始める。

 

 1879年8月に若くして父が死去して、長男の高野は形式上戸主となった。さらに、1881年2月に火災で、「長崎屋」は焼失した。

「長崎屋」は近辺に移転する形で営業を再開したが、この年に公立江東小学校の高等小学校(現・墨田区立両国小学校)を卒業した高野は、横浜に住む伯父の汽船問屋兼旅館に住み込みで働き、夜は横浜商法学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)に通学した。

 

 この時代に、横浜商法学校生をはじめとする青年による「講学会」という学習結社に所属して活動し、講師として高田早苗らを招くなどしている。

 1886年の4月に、伯父が急死したことをきっかけとして、12月に渡米した。渡米後に、約半年間、サンフランシスコ近郊のオークランドで、「スクールボーイ」と呼ばれた使用人の職に就く。

 

 次いで、ポイント・アリーナという町の製材所に勤めたが、1887年10月には、約1ヶ月間一時帰国した。

 その目的は、アメリカで起業するための資金調達と、商品の仕入れであったとみられている。

 またこの一時帰国の際に、読売新聞の社友として通信員(無給に近かったと推定されている)となって、同年12月22日付の紙面に「O.T.F」の筆名で、「米国桑港通信」が掲載されたのが初の記事となった。

 

 これは、当時の主筆だった高田早苗との縁によるものであろう、と二村一夫は述べている。帰米後に、サンフランシスコに日本雑貨の店を共同出資により開くが、1年と経たずに閉店に追い込まれた。

 

 店を失った高野は、ポイント・アリーナを皮切りに、シアトルタコマと移って仕事をした。タコマでは、レストランの共同経営者だった。

 のちに、英語を本格的に勉強したいという理由で、1890年10月にサンフランシスコに戻った。

 

 この間に高野は、労働運動について知って、興味を示すようになったと推測されている。サンフランシスコでは、様々な職を転々としながら、1891年1月から授業料の不要なサンフランシスコ商業学校に通学した。

 

 この年に、靴職人の城常太郎、洋服仕立て職人の澤田半之助ら、サンフランシスコ地方在住の数名の日本人とともに、職工義友会を組織する。

 8月には、「日本に於ける労働問題」という論説記事が、読売新聞の1面トップに4日間掲載された。

 

 また、11月にアメリカの労働運動研究者ジョージ・ガントンの著書である『富と進歩』に出会い、大きな影響を受けた。

 

 1892年に、サンフランシスコ商業学校を卒業する。高野は経済的理由で、1892年に入った頃に通学をやめていたが、学校側の都合で卒業式を延期していたことに加えて、学業成績も良好だったことから認められたものであった。

 

 学業を終えて、フルタイムで働けるようになった高野は、再びタコマに移り、仕事の稼ぎを実家への仕送りのほかに、経済学書の購入に充てて勉学した。

 

 この年に、再度の一時帰国後に、アメリカ東部に旅立ち、翌1893年には、シカゴ万国博覧会を日本物産即売所で働きながら観覧した。

 

 1894年3月に、滞在先のマサチューセッツ州グレートバーリントンから、アメリカ労働総同盟(AFL)会長のサミュエル・ゴンパーズに手紙を送る。

 ゴンパーズからは好意的な返書が届き、その後もAFLの機関紙である"American Federationist"への寄稿を勧められるなど、知遇を得た。

 

 同年の4月に、ニューヨークに移り、アメリカ海軍の雇員(艦艇の食堂従業員)として採用される。

 約半年間はニューヨーク市内に居住して、ゴンパーズや労働騎士団のジョン・ヘイズをはじめ、多く労働運動家と文通して、運動についての助言や知識を得た。

 

 9月4日には、ゴンパーズと面会する。ゴンパーズは高野を、日本担当のAFLのオルグに任命した。10月には"American Federationist"第1巻第8号に、論文"Labor Movement in Japan"が掲載された。

 

 10月1日付で高野は、アメリカ海軍の砲艦マチアスに配属されて、マチアスは11月に出港して、東回りでアジアへと向かった。

 マチアスの厨房・食堂従業員は、すべて日本人であった。

 

 1895年4月に、故郷の長崎に寄港して、親族(姉と義兄)と面会した。その後に、マチアスは中国の黄海沿岸から、長江をパトロールの目的で航行して、この間に高野は、英語による論文の執筆(いずれも雑誌に掲載)や、アメリカとの文通をおこなっている。

 

 乗務中に執筆した論文の中には、上海での紡績工場ストライキを取り上げたものがあり、滞在先での見聞も生かしていた。

 

 1896年6月に、マチアスが横浜に入港したあと、未払い分の賃金を受け取ることなく、脱艦する形で帰国した。 帰国直後は、横浜で英字紙『デイリー・アドヴァタイザー』の翻訳記者を務めた。

 

 翌1897年に、東京で改めて職工義友会を結成して、檄文として会が発行した「職工諸君に寄す」は、高野の執筆とされる。

 同年に、職工義友会を改組する形で、片山潜らと労働組合期成会を結成した。日本最初の労働機関紙である『労働世界』も創刊された。

 

 しかし、労働組合主義を唱える高野は、社会主義に傾斜した片山らと次第に対立した。1899年に、消費組合である共栄社を設立して、その運営に軸足を置いたが成功せずに、1900年に組合運動から突如に離脱して、中国に渡る。

 

 1904年3月12日、ドイツ帝国の租借地であった中国の、青島のドイツ病院で死去した。墓所は文京区吉祥寺にある。

 

 労働問題に対処するための思想や運動には、積極的な取り締まり方針を打ち出していた政府以外に、三種類の系統が存在していたが、高野が所属したのはそのうちの一種類である「労働組合主義」である。

 

 サミュエル・ゴンパーズに教えを得て、熟練労働者の横断的な労働組合の効用があることや、産業の発展と賃金の上昇の結びつきがあるという考えを持っていた。

 そのうえで、労使協調の支持者であった。また社会主義には反対していたため、治安警察法の実施を契機に、急速に社会主義に向かった片山潜との間には溝ができ始めた。

 

 また、ゴンパーズと違った考えも持っていて、高野は「名望ある有識家」の誘導によって、労働者を助けて、友愛組合的で自助主義的な労働組合をつくるということを考えていた。

 

 日本では当時、労働運動において、先進国内ではかなり遅れていて、日本人の古い思想や生活習慣に、プロレタリア意識を押し付けることは不可能であった。

 彼は、日本人の労働への意識改革に取り組んだ一人でもある。

 

 高野房太郎(1869―1904)は明治時代の労働運動家で、渡米して苦学し,アメリカ労働総同盟の日本オルグに任命され、帰国後片山潜らと労働組合期成会を結成して日本最初の労働組合となる鉄工組合を組織した。さらに、消費組合運動にも尽力した。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「労働は神聖なり、結合は勢力なり。神聖の労働に従ふ人にして勢力の結合を作らんか、天下亦何者か之に衝る者あらんや」