人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 長塚 節(ながつか たかし・1879年― 1915年)は、日本歌人小説家である。茨城県結城郡に生まれた。

 病弱で中学を中退して、療養生活の中で、短歌に親しんだ。正岡子規の『歌よみに与ふる書』に深い感銘を受けて、1900年に入門した。

 ひたすら子規の写生の風を摂取して、子規短歌の最も正当な継承者と言われた。

 

「馬酔木」「アララギ」の創刊に参画した。晩年には、透徹した清澄な調べをめざす「冴え」の説を唱えた。

 

 彼は、1879年(明治12年)4月3日に、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生<こっしょう>)の豪農の家に生まれた。

 1893年(明治26年)4月、茨城中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)に首席で入学して、4年進級までしたが、脳神経衰弱を発症して、学業継続困難となる。

 

 官立茨城師範学校(現在の茨城大学教育学部)を卒業した。郷里に戻って、自然に親しみ、読書する生活を送りながら、療養に努めるなかで、さまざまな文学への関心を高めていった。

 

 19歳の時に、家で購読していた新聞「日本」に連載された正岡子規の、『歌よみに与ふる書』を読み、その写生説に激しく共感した。

 21歳になると、子規の許を直接訪ねて、入門して、『アララギ』の創刊に携わることになる。

 

 子規の下では、もっぱら万葉の短歌の研究と作歌にはげんだが、子規の没後もその方向性を違えず、写生主義を継承した作風を発展させた。

 そのために、子規門人の間で「、節こそが正岡子規の詠風の正統な後継者である」との評価が生まれた。

 

 長塚節は、伊藤左千夫と終生にわたり親交を続けたが、一方で『アララギ』の創刊に当たり、編集を担った伊藤と対立した。財務編集担当であった蕨真一郎に対して、伊藤の姿勢に不満を漏らす長文の手紙を送りつけている。

 

 このために、伊藤の再三の要求にもかかわらず、長塚は『アララギ』に作品を発表することはほとんどなく、1913年(大正2年)に、伊藤が死去した後の1914年(大正3年)にようやく「鍼の如く」の和歌232首の連作を発表している。

 

 彼は、散文の執筆を手掛けて、写生文を筆頭に数々の小説を『ホトトギス』に寄稿する。

 さらには、当時の農村を写実的に描写した『』を、『東京朝日新聞』に連載した。これは農民文学のさきがけとなる重要な作品と評価されて、彼の代表作となった。

 

 長塚節(1879―1915)は、明治時代の歌人・小説家で茨城県の生まれである。正岡子規の門に入り,アララギ派の代表となる。

 長編小説『土』は、貧農の生活を精細に描いたものとして有名である。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「彼等の最初に踏んだ土の強大な牽引力は永久に彼等を遠く放たない。彼等は到底其の土に苦しみ通さねばならぬ運命を持って居るのである」