ケネーは、18世紀フランスの経済学者である。『経済表』を著して、重農主義を説く。また自由放任(レッセ=フェール)の経済活動を主張して、アダム=スミスに継承された。ディドロに協力して、『百科全書』にも寄港した。
ケネーは『経済表』(1758年)を著して、財が地主・生産者・商工業者によって生み出されて、分配されていく経済構造を明らかにした。
その主張は、17~18世紀のルイ14世による絶対王政のもとで、コルベールによって進められた経済政策であった重商主義に対して、国家による経済統制の行き過ぎとして批判して、農業生産を基本とした自由な貿易によって経済を発展させることであった。
そのようなケネーの経済思想は、重農主義と言われて、また生産者と商人の自由な経済活動を重んじ、国家の管理を排除した自由放任(レッセ・フェール)の思想は、次に現れるイギリスのアダム=スミスの『諸国民の富』(国富論)とともに来るべき資本主義時代の自由主義経済理論の原点となった。
ケネーは当時盛んになった啓蒙思想にも賛同して、『百科全書』にも執筆している。
ケネー(1694-1774 )は、パリ郊外に生まれて、医学を学んで1718年に外科医を開業する。
1749年以来、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の侍医として、ヴェルサイユ宮殿で暮らした。
王子の天然痘治療に功績があって貴族に列せられ、国王の侍医長となったが、55歳で経済学に転じて、1758年に『経済表』を発表した。
ケネーは、元来は医者であり、外科医学の開拓者であるが、彼は医者としての自然認識を社会にも適用して、自然法をいわば自然科学的にとらえた。
ケネーは医者として、人間の身体の中で血液が循環し、たえず再生される構造を知ったが、それと同じことが社会の中にも認められると考える。
社会のなかを循環する富を生産して、再生産する究極の場所は、どこにあるのだろうか。それは農業の営まれる土地であると彼は答える。
「君主も国民も、土地こそが富の唯一の源泉であり、富を増加させるものはまさに農業であることを一瞬たりとも忘れてはならない。」
ケネーの新しさは、土地を資本の投下部面としてとらえ、資本の利潤に相当する「純生産物」が土地から生まれることを明らかにした点である。
彼はこの関係を、社会の諸階級―地主階級・生産階級・不生産階級の関係に移しかえて、その相互連関を表式にまとめ上げた。これが有名な『経済表』である。
『経済表』のなかでケネーは、生産の統轄者として地位を「地主階級」にあたえている。この「地主階級」は、資本主義的な生産を前提とするから、もちろん封建領主階級ではないが、しかし封建領主階級と言えども領主権に依存することをやめて、単なる土地所有者として再生すれば、「純生産」を手に入れることができると主張する。
その学派は重農主義と言われるが、彼自身はその体系をフィジオクラシー(自然の統治)と呼んだ。具体的な政策としては、土地所有者の安全と自由が保障されなければならないとした。
その重農主義運動は、1760年代の「穀物取引の自由」や「土地囲い込みの自由」を実現した。この運動は特権身分や絶対王政と結びついた特権ブルジョワの支配を揺るがし、地主や富農、産業ブルジョワジーの経済的自由主義を後押ししたが、具体的な政治改革とは結びつかなかった。
また、重農主義の土地を私有財産として、自由放任によって生産性を競争させるというやりかたは、一方で農民層の没落、プロレタリア化をひきおこした。
70年代になると、食糧暴動や囲い込み反対一揆が頻発し、フィジオクラシーは後退を余儀なくされ、ケネーも1774年に失意のうちに死んだ。
このケネーを批判して、土地所有を貧富の差の根源にあるとして、その否定を論じたのはルソーであった。
しかし、ケネーの『経済表』は、初めて富の流れを解き明かした書物として、アダム=スミスの『国富論』と並んで、近代経済学の出発点となったことは間違いなく、マルクスもこの書を天才的と評している。
フランソワ・ケネー(1694年―1774年)は、フランスの医師で、重農主義(フィジオクラシー)の経済学者である。
1758年に、重農主義の『経済表』を出版した。これは分析的手法で、経済活動について最初の活動で、経済思想への重要な貢献である。
人間の生き方について彼はかたっている。
「富が農業の大きな原動力であり、よい耕作のためには多くの富が必要だ」