ヘルマン・カール・ヘッセ(1877年- 1962年)は、ドイツ生まれのスイスの作家で、主に詩と小説によって知られる20世紀前半の、ドイツ文学を代表する文学者である。
南ドイツの風物のなかで、穏やかな人間の生き方を描いた作品が多い。また、ヘッセは、風景や蝶々などの水彩画もよく描いて、自身の絵を添えた詩文集も刊行している。1946年に、『ガラス玉演戯』などの作品が評価され、ノーベル文学賞を受賞した。
ヘルマン・ヘッセは、ドイツ南部のヴュルテンベルク王国のカルフに生まれた。ヘッセ家は、エストニアのバルト・ドイツ人の家系である。
ヘッセの父親は、その名をカール・オットー・ヨハネスといい、スイス・バーゼルの宣教師であった。
カールは、ヘッセの祖父カール・ヘルマン・ヘッセと祖母イェニー・ラスとの間に生まれた五男であった。
そして、カールは、インド生まれのマリー・グンデルト(ドイツ系スイス人の宣教師ヘルマン・グンデルトの娘で、母方の従弟にヴィルヘルム・グンデルトがいる)との間に4人の子供をもうけた。ヘルマンは、その2人目の子供である。
1881年に、両親は布教雑誌の編集のために、バーゼルの伝道館に招かれる。ヘッセは活発な子供で、4歳頃から詩を作っていた。
1886年に母方の祖父のいるカルフに戻る。難関とされるヴュルテンベルク州立学校の試験に合格して、14歳のときにマウルブロンの神学校に入学する。
しかし、半年で脱走してしまう。ヘッセは、両親の知り合いの牧師から悪魔払いを受けるが、効果はなかった。
その後、ヘッセは、自殺未遂を図ったため、シュテッテン神経科病院に入院する。退院後に、ヘッセは、カンシュタットのギムナジウムに入学する。だが、その学校も退学してしまう。
それから、本屋の見習い店員となるが、3日で脱走する。当時の経験は、『車輪の下』の原体験となっていると言われている。
その後は、さまざまな職に就きながら作品を執筆して、1895年からは、テュービンゲンのヘッケンハウアー書店の、店員として働く。
このことは、ヘッセが作家として成功を収めてから有名になって、店にはヘッセの作品のコーナーが作られた。
1896年に、ウィーンの雑誌に投稿した「マドンナ」という詩が掲載された。1899年に最初の詩集『ロマン的な歌』を自費出版した。
1904年、27歳のときに、ヘッセは、マリア・ベルニリという女性と結婚して、次男のハイナー・ヘルマンを含む3人の子供をもうけた。
この頃のヘッセの作品は、ノスタルジックな雰囲気の漂う牧歌的な作品が多い。これらの作品が描く世界は、ある意味では、一つの価値観に基づいた予定調和の世界となっている。
1904年から、ボーデン湖畔のガイエンホーフェンに住み、1912年からはスイスのベルンに移った。第一次大戦中にはドイツの捕虜救援機関や、ベルンにあるドイツ人捕虜救援局で働いた。
1919年の、『デミアン』執筆前後から作風は一変する。この頃は、第一次大戦の影響などもあって、ヘッセは深い精神的危機を経験する。
ティチーノ州のモンタニョーラという小さな村に落ち着き、カール・グスタフ・ユングの弟子たちの助けを借りながら、精神の回復を遂げる。
そのなかで、ヘッセの深い精神世界を描いた作品が、『デミアン』である。それ以降の作品には、現代文明への強烈な批判と洞察、精神的な問題点などが多く描かれていて、ヘッセをドイツ文学を代表する作家に押し上げた。
1924年に、ヘッセは、ルート・ヴェンガーという女性と結婚した。だが、3年後に離婚した。同年にスイスに帰化した。
また、1931年には、アシュケナジム・ユダヤ人のニノン・ドルビン(旧姓アウスレンダー)という女性と結婚する。なお、ヘッセとニノンは、長年の間、文通をしていたそうである。
平和主義を唱えていたヘッセの作品は、ナチス政権から「時代に好ましくない」というレッテルを貼られて、ドイツ国内で紙の割り当てを禁止された。
1946年、ヘッセは、ノーベル文学賞とゲーテ賞を受賞する。翌47年には生まれ故郷のカルフ市の名誉市民となる。同年、アンドレ・ジッドの訪問を受ける。
1962年に、ヘッセは43年間を過ごしたモンタニョーラの自宅で死去して、サン・アッボンディオ教会に葬られた。
ヘルマン・ヘッセはドイツの小説家、詩人で、1923年以降はスイスに永住し、現代文明への批判を深め、心の深奥の探究と、東洋的神秘への憧憬が結びついた小説を書いた。
ヘルマン・ヘッセは人間の生き方について語っている。
「人生は一頭の馬である。軽快なたくましい馬である。人間はそれを騎手のように大胆に、しかも細心に取り扱わなければならない」