芥川 龍之介(1892年 - 1927年)は日本の小説家で、東京出身である。『鼻』、『羅生門』、『地獄変』、『歯車』などで知られている。
明治25年3月1日東京に生まれる。新原敏三の長男として生まれたが、母フクが精神を病み、母の実家の芥川家(道章・儔(とも))に引き取られた。
代々から、江戸城の奥坊主を務めた家柄である芥川家に育ったため、文芸、芸事への関心を早くからもった。
東京帝国大学入学の翌年(1914)に、久米正雄(くめまさお)、松岡譲(ゆずる)らと第三次『新思潮』を創刊して、『老年』(1914.5)や翻訳を発表した。
ついで『羅生門』(1915.11)、『鼻』(1916.2)、『芋粥(いもがゆ)』(1916.9)を発表して、1915年(大正4)末から師事していた夏目漱石に認められたことから、文壇へ登ることになった。
漱石からは近代個人主義を軸とした人格主義を、森鴎外からはその翻訳などを通して、文体や表現上の影響を受けた。
『今昔物語集』などの説話から素材を得て、歴史小説の形式をとりながら、ストリンドベリやアナトール・フランスらの、ヨーロッパの19世紀末文学の影響下に形成した人間観を表出した初期の諸短編は、自然主義にかわり、耽美(たんび)主義、新理想主義に続く新しい文学(新理知派)の展開として注目された。
1917年から翌1918年にかけては、海軍機関学校教官、大阪毎日新聞社員として生活しながら、『戯作三昧(げさくざんまい)』(1917.10)、『地獄変』(1918.5)、『奉教人の死』(1918.9)、『枯野抄』(1918.10)などの力作を相次いで発表した。
自然主義的、小市民的現実がはらむ矛盾や対立を、芸術によって止揚しようとする芸術主義を顕示して、大正文壇の代表作家の地位を確立した。
しかし、1920年(大正9)以降は、『秋』(1920.4)を初めとして、現実や日常性に目を向け、芸術主義の態度を修正しつつあり、『蜜柑(みかん)』(1919.5)、『舞踏会』(1920.1)などには、人生における感動と、認識との調和の破綻(はたん)がすでに表現されている。
1921年3月から7月にかけての、大阪毎日新聞社海外視察員としての中国旅行から帰国後は、健康の衰えが著しく、懐疑的、厭世(えんせい)的態度を強めて、『藪(やぶ)の中』(1922.1)、『神神の微笑』(1922.1)などを発表したものの、創作上の行き詰まりを自覚するようになった。
私小説隆盛の当時の時流のなかで、かたくなに拒否していた私小説的作品にまで手を染めたが、結局打開しきれなかった。
大正10年代、とくに関東大震災(1923)後に、勢力を拡張してきたプロレタリア文学と対峙(たいじ)した市民文学のなかで、私小説や心境小説を偏重する傾向に対して、芸術の自律性を尊重する芸術派の立場を変えなかった。
だが、社会主義への関心を示したり、中野重治(しげはる)や堀辰雄(たつお)に新しい文学の萌芽(ほうが)を認めるなどの変化をみせて、やがて自己の芸術にさえ懐疑的になった。
昭和改元(1926.12)後に発表した『玄鶴(げんかく)山房』(1927.2)、『蜃気楼(しんきろう)』(1927.3)、『河童(かっぱ)』(1927.3)や、遺稿として死後に発表された『歯車』(1927.10)、『或阿呆(あるあほう)の一生』(1927.10)などには、暗い現実認識を基調に、個性とか人格とかいう既存の価値観では支えきれない人間のあり方が描きとめられ、近代個人主義に立脚した芸術の一つの帰結が認められる。
昭和2年7月24日、自宅でベロナールなどの睡眠薬を多量に飲んで自殺した。芥川の自殺は、一つの時代の変わり目を告げる事件として、文壇や知識人に衝撃を与え、社会的にも大きく報じられた。
近代自我の全体性を、芸術を通して実現する芸術主義と、個人主義とを基調として展開された大正文学の代表的作家として、また、ヨーロッパ的なものの広範な摂取のうえに、近代短編小説の多様な可能性を実践した短編小説家として、芥川の名は近代文学史のうえに特筆されるものである。
没後に、何度も全集が刊行されて広く愛読されている。親友であった『文芸春秋』創刊者の菊池寛によって設けられた「芥川龍之介賞」は、今日に至るまで権威のある文学賞として社会的関心を集めている。
芥川龍之介は夏目漱石から人格主義を、森鴎外からは文体や表現上の影響を受け、『今昔物語集』などの説話から、自然主義にかわり、耽美(たんび)主義、新理想主義に続く新しい文学(新理知派)を展開した。
芥川龍之介は人間の生き方について語っている。
「人生は一箱のマッチに似てゐる。重大に扱ふのはばかばかしい。重大に扱はなければ危険である」