連作小説「神への道」 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

連作小説 「神への道」

第一部 「少年記」

第三十三作

うそぬきの滝近郊の作物

「ワサビ」

 

「……ワサビと聞いたり見たりすると、詫と寂びへと思いがはたらいていくが、語呂がにているからかも知れんな」

 夕食のときである。サバの刺身をまえに、晩酌の焼酎の湯割りを手にした祖父がタケルにいった。

 

「……むかしに、おいどんが母親がいうておったが、詫びとは、閑寂な風趣のことじゃそうな。茶道や俳句でよくつかわれているげな。さびのことじゃげな。とかく茶はわびがおもでございます、などというて、点前のときにつかっているげな」

 

 祖父の母親は、俳句や和歌を好んだという。ハシにつかんだサバの刺身にワサビしょう油をつけて、それを口にしてから祖父がつづけた。

 

「……おいどんが母親がいってきかせたが、寂びとは、古くておもむきのあることで、閑寂なことじゃげな。枯れた低い声で語る人に、サビがあるともいうじゃろう」

 

 俳句の好きな母親に、祖父は作句をおそわったという。だけど大人になって、百姓仕事におわれて、それどころではなかったといってから言葉をつづけた。

 

「……寂びは芭蕉風の俳諧で、根本の理念でもあるそうな。閑寂味が洗練されて、純粋に芸術とされたものなんじゃそうな。句にそなわっている閑寂な情調のことじゃそうな。おいどんが母親が、そげん言うておった」

 

 タケルも俳句が好きで、中学生になってからよく作句した。胸のポケットに、手帳と鉛筆をしのばせて、詩歌をつくったりもしていた。

「……一番列車がくるぞ、起きんか」

早朝の五時である。祖父が囲炉裏端から声をかけてタケルを起こす。眠い目をこすって顔をあらってから、駅までタケルは自転車をとばしていく。

 

 一番列車が日豊本線を、鹿児島から宮崎へむかって登ってくる。車掌が新聞の大きな束を、駅のホームに投げる。配達の少年たちが、急いで仕分けをする。チラシを入れたりして忙しい。

 

「……おはようございます、今日の新聞です」

 こういって、自転車につんだ真新しい情報を、家々の玄関にくばっていく。冬などまだ暗い。自転車のライトがたよりである。寒い。手袋の手が冷たい。いや、痛いのである。

 

 町中の家々の密集地だといい。荷台がみるみるうちに軽くなっていく。ところが人里を遠く離れた水力発電所があった。高い山の上の、飲料水の水源地があった。階段を100段も駆けあがった。雨の日もある。台風もくる。雪が降れば道がわからなくなった。

 

 配達を終えると、タケルは手帳に鉛筆をはしらせた。短詩形の文学は、直観で表現すればいい。早くて便利である。作句は自己流である。祖父にかんたんな手ほどきはうけただけだった。

 

主観をいれずに、風景にものをいわせた。標高が千百十三メートルの桜島山は、どこへ行っても遠くからタケルをじっと見ている。走っても走っても、どこまでも追いかけてくる。

 

「……気ばれよ、怪我をするなよ、いまにきっといい日がくる、この世は自分との闘いじゃ。いまのうちに、心と身体をきたえておけよ」

 煙りを吐きながらこういって、タケルに語りかけてくるのだった。だから作句や詩歌のおおかたは、燃えて火を吐く桜島山がからんでいた。

 

桜島山は、朝から日暮れまでに、七色に変化をしてみせた。天候によって色合いを変える。雲にかくれたりもする。雨がふれば姿がみえない。詩歌や作句によって、自分のこころもあの山のように、たえず変化していかなくてはならない、とどまっていてはならない、タケルはそう思うのだった。

 

 

 家に帰りつくと、汗でびっしょりであった。あわてて食事をすませて、また自転車を学校へとばしていく。新聞少年だけが自転車通学を許されていた。それが何か特権を得たようで、タケルの心に弾みをつけてくれたのだった。

 

 会社や役場へ行く人たちとならんで走った。タケルは自分が大人になって、社会の一員になった気分だった。学校の門を入ると、一時間目のはじまりの鐘が鳴りひびいていた。

 

 夕食がすんでタケルは、囲炉裏端で作物図鑑に目をとおしていた。祖父と祖母はお茶をのんでいた。

 

「ワサビはアブラナ科で、地下にある茎は、節のようになっていて、独特の香りと辛味がある。漬け物や刺身の香辛料に使われている。常緑性で、きれいな湧き水の豊富な、谷川に自生している」

 

「ワサビの栽培は、水温が摂氏10度から13度で生育がよい。30センチ位の高さになる。葉は心臓の形をしている。春になると、白い四弁の花を咲かせている」

 

「ワサビダイコンは、根に激しい辛味と、特有の香りがある。調味料につかわれている。粉ワサビの原料でもある。冬になると、地上の茎は枯れてしまう。2年から3年に一度ずつ、株分けをして増殖されている。原産地はフィンランドである。セイヨウワサビとも呼ばれて、健胃剤にも使われている」

 

「わさび漬けは、ワサビの葉や根や茎を、細かく刻んで、酒粕に漬けた食品である。静岡の名産品である。そのほかにも、わさび餅などがある」

 

「ワサビの木がある。ワサビ科の小さな落葉樹で、インドが原産である。葉が大きく、羽のように複数ある。花は空を飛ぶ白いチョウに似ている。果実は60センチ位の棒のようになっている。若葉や花などが食用にされている。樹皮から分泌したゴム質から、トラカント・ゴムが作られている。種子から採取した油を、モリンガ油と呼んでいる。時計用の油として、最高級品とされている。サラダ油や香油に使われることもある」